王羲之書島黄楊柾目書き駒
酔棋作(第341作)
安食総子氏所蔵
「玉将」と「王将」の違い、流れるような筆致の「歩兵」。 |
久しぶりに「王羲之」を書き駒で作った。その酔棋流書き駒の制作方法は、「第9回駒プレゼント」(▼別項参照)と「第10回駒プレゼント」(▼別項参照)をご覧いただきたい。下記で紹介しているように、この書き駒は安食総子女流初段に私(酔棋)が贈呈したものである。また、この書体を選んだのは安食初段ご自身なのだ。その経緯がおもしろいので、少しだけ書き留めておくことにする。
駒を作って差し上げることになったとき、「書体はどんなものがお好みですか?」と私がお尋ねしたところ、何日か安食初段は熟考なされてメールで希望の書体を二つ知らせてきた。そのうちの書体の一つが「王羲之」で、もう一つは「巻菱湖」であった。「巻菱湖」は、これまでに数多く作ってきた書体の一つだし、どちらかというと好きな書体でもある。ただし、よく作るだけあって、作る側の駒師としてやや飽きも生じてくるのも事実である(笑い)。
というわけで今回は、もう一つの書体「王羲之」を作らせてもらうことになったのである。調べてみたら、これまでに「王羲之」は3組作っていて、最後の作は1996年であったから本当に久しぶりの作となった。さらに、『駒の詩』にも「王羲之」は初めて掲載することになる。また、この「書体への誘い」もしばらく更新していなかったので、いい機会だからここに載せたいという思いもあり、この「王羲之」を作ってみる気になったのである。
そこでこの際、「王羲之」の字母紙を新たに作り直した。この流麗で魅力的な筆致を、駒形に収めるのは本当はやや無理ではないかとも思えるが、実際に駒にするとなかなか魅惑的なのも確かである。右に作った字母紙を、サンプルとして掲げたのでご覧いただきたい。ご存じのように駒の書体は数多くあるが、「玉将」と「王将」の違いは「、」(点)のあるなしがほとんどである。サンプルの「玉将」と「王将」は、「、」(点)のあるなし以外に明らかに違っている(○楕円参照)。他にこのような処理のされている書体としては、「巻菱湖」も同様である。また、サンプルの「歩兵」の(○赤丸)部分は少し離れているが、つながっている字母も見受けられる。この「王羲之」以外にも、作り手つまり駒師によってこのように駒字の細部は、意外と異なっているものなのである。
駒の書体として流布しているものには、「王羲之」と「王義之」の2種類がある。つまり、「羲」と「義」が違うのである。これは以下の「ウィキペディア」の記事を掲載しているように、「書聖」とたたえられる中国の書家の字が源流なら、当然「王羲之」であろう。おそらくはその「羲」が難しいので、駒の書体として伝わっていくときに「義」が代用されたか間違ったものだろう。
この「王羲之」が駒字となったのは、そんなに古くはなさそうである。実際にどこの誰が駒字としたのかは判明しないが、おそらくは「書聖」の字を駒字としたらいいと考えた方が、残された文献や書から駒字を作ったと思われる。私が知っているかぎりでは、駒を作りはじめ少したったぐらいに徐々に広まっていった気がする。だから、30年前くらいなのだろうか?
●ウィキペディアより一部抜粋
王 羲之(おう ぎし、303年 - 361年)は、中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省臨沂市)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。
王羲之は、書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として、書聖と称される。末子の王献之も書を能くし、併せて二王(羲之が大王、献之が小王)の称をもって伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがある。その書は日本においても奈良時代から手本とされており、現在もその余波をとどめている。
王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編纂された『淳化閣帖』の影響が大きい。王羲之の作品としては、行書の『蘭亭序』が最も高名であるが、王羲之は各体を能くし、『書断』では楷書・行書・草書・章草・飛白の5体を神品としている。中国では多芸を重んじる傾向があり、王羲之の書が尊ばれる要因はここにある。『古今書人優劣評』に、「王羲之の書の筆勢は、ひときは威勢がよく、竜が天門を跳ねるが如く、虎が鳳闕に臥すが如し」と形容されている。
書聖と称されただけあり、後世の書道界への影響は絶大であった。後の時代の書家はほぼ全員が王羲之を手本として、何らかの影響を受けたと言われている。そのため、「書道を習う者はまず王羲之を学んでから他を学べ」とさえ言われた。
科挙においても王羲之の技法で書かなければ答えが合っていても合格にならなかったと言われている。文字通り「王羲之の文字でなければ文字にあらず」とさえ言われたのである。
※「王羲之」その人それ自身はあまりよくわからないが、とにかく書に長けていたことはよくわかる。そもそもその書を駒字にしていいかはともかくとして、駒形という制約に収めるには、その歴史を考えるとかなり無謀な気もする。ただ、「王羲之」を駒の書体とした先人のチャレンジには、敬意を表しておきたい。
駒贈呈記念将棋会 安食総子初段は、プロのタイトル戦などをはじめ、いろいろなテレビ対局で聞き手を務めることが多いので、みなさんにもよく知られている思う。私もテレビの将棋観戦ではよく知っていたが、実際にお目にかかったのは、私の棋友であり、駒友でもある三上勉さんが、囲碁将棋チャンネルの『お好み将棋道場』に対局者として出演し、その応援に駆けつけたのが初めてであった。対局収録(2012年9月20日)終了後、難戦を制した三上さんが一席をもうけるということで、収録の関係者(下記参照)で懇親会が行われた。
完成した「王羲之」の「王将」の裏には、記念として安食初段のお名前を彫り埋めで入れてある(上写真)。これもまたよく私が駒を作るときにやっていることだが、余り歩(通常は2歩余分)をさらに多めに作った場合は、携帯のストラップなどに使ってもらえるように、根付を作って差し上げている。 ●『お好み将棋道場』より(テレビの一場面)
※このテレビ対局の別写真などは、前出の「作品ライブラリー・鵞堂(第342作)」にも掲載してある。 ●「王羲之」での記念対局と懇親会(2012年11月27日)
駒が完成し、女流棋士お2人の都合のいい日が決まり、2012年11月27日に私とお2人との記念対局が、拙宅のマンションにて開催された。それぞれの新しい2組(「王羲之」「鵞堂」)の駒に将棋を教える「魂入れ」の儀式もかねての対局だから、とりあえず勝敗はあまり関係はない。とはいえ、やはり勝ちたいことには変わりはない(笑い)。将棋そのものと対局結果は、先に掲げた別項の「棋譜ページ」でご覧いただきたい。 |