淇洲書薩摩黄楊根杢盛り上げ駒
酔棋作(第223作)
盤駒店で販売済み
今は亡き実力制四代名人・升田幸三が愛用していたのが、影水作の赤柾盛り上げ駒で、書体は「淇洲」であった。別項でも紹介している夭折の天才駒師・宮松影水と将棋の大天才・升田幸三とは生前交流があり、升田は影水に駒をよく依頼していたという。現在も升田家には、影水作の駒が他に数組残されている。
その升田愛用の駒を元字にして、私が制作したのが上記の駒だ。それまでは、「あの駒は今」で取り上げた東京・新宿ゴールデン街の飲み屋「一歩」で使っている書き駒の「淇洲」の字母で作っていたが、最近字母紙を作り直しこれで作るようになった。「作品ライブラリー」の第227作「淇洲」は、同じ字母での制作だが、そちらは彫り駒である。同書体の盛り上げと彫り駒を比べてみるのも、一興かもしれない。
愛用の駒と一緒に使う榧の卓上盤の桐製の盤覆いには、升田直筆で「たどり来ていまだ山麓」「新手一生」がしたためられている。また、それぞれに「大名人」「超名人」と名前の前に書かれているのは、いかにも升田らしくて思わずニヤリとしていまいそうだ。将棋好きなら升田が天才であること異論を挟む人はいないのと同じく、駒好きにとっては影水が天才駒師であることに異論を挟む人はやはりいないだろう。
影水のほうが先に亡くなってはいるが、「天才は天才を知る」という言葉もあるように、二人の天才はお互いの天職を認めていたような気がするのは私だけだろうか。厳しく激しかったといわれる升田の攻めには、影水の妥協を許さない駒作りがぴったりだったのだろう。
■「淇洲」の由来
山形県酒田の人、竹内淇洲(本名・丑松、1947年没)が「淇洲書」の主。専門棋士ではなかったが八段に推薦されるほどの棋力で、他にも政治、文学、囲碁などでも活躍し、書や漢詩にも堪能であった。淇洲が書いた『将棋漫話』は、将棋史をひもとくにはなくてはならない本だ。
時代をさかのぼって、淇洲の祖父・伊右エ門(いえもん)は、それまで流布していた駒銘に飽き足らず、いい駒銘を求めていた。黄楊の北限とされる地元の鳥海黄楊でその駒を作ることを考え、書にすぐれていた孫の淇洲に駒銘を書かせたのだ。しかし、完成を待たずに伊右エ門は逝ってしまうが、そのとき「将来、名人になる人にこの駒を贈ること」という遺言を残した。
その後、関根金次郎七段(のちの十三世名人)が明治37年(1904年)、酒田に来て竹内家に滞在した。関根と対局した淇洲は、その人柄と棋才に深く感じ入って祖父の遺言の駒を贈った。それから関根は勝ちつづけ、その様が向かうところ敵なき「錦の御旗」と同じだというので「錦旗」と呼ばれ、「関根の出世駒」ともいわれるようになったのである。豊島龍山の「錦旗」とはまったく違って、淇洲の駒が「錦旗駒」と世にいわれたゆえんである。
版木でなく自筆の駒
上記写真の私が作った字母(玉、歩、と金)。
|
現存する竹内淇洲の残された駒から作成した駒字。
|
実際に淇洲の作った駒は数十組あったとされ、現存する淇洲駒は4組が確認されている。当時は、駒の版木はなかったので、肉筆であった。だから、極端にいえば一枚一枚微妙に駒字が異なって見えるのである。
上記の下段の字母が、実際に残されたうちの1組から私が起こした字母である。上段のもの(元は影水の作)と比べると、その素朴な感じがわかっていただけることだろう。
関根十三世名人が、実際に対局で指して使っていたとされる淇洲作の「関根の出世駒」は、今なお見つかってはいない。