巻菱湖書島黄楊虎斑盛り上げ駒 駒銘をご覧になっておわかりのように、この駒は「巻菱湖書・宮松作」だ。別に「菱湖書・影水作」という駒銘もある。 |
錦旗島黄楊虎斑盛り上げ駒 (北田義之氏所蔵) 影水の「錦旗」には2つのバージョンがある。駒字に強弱があり、全体にやや派手に作られたもの。この駒がその派手な作りのほうである。特に「と金」のハイリが勇壮で力強い。 |
水無瀬書島黄楊根杢盛り上げ駒 影水の「水無瀬」は、やはり「と金」や「玉将」などが独自の表現でやや派手めに作られている。 |
やや大ぶりな駒形に、細部まで吟味された装飾が施された駒字が影水の魅力であろう。書体によってはやや派手すぎて違和感を感じさせることもあるが、総合的に考えると、それ自体が影水の特徴であり魅力なのかもしれない。
どんな書体でも、「影水流」に仕立てるからか、逆に得意にしている書体はないといっていいくらいだ。そのようななかでも「巻菱湖」「水無瀬」などは、これ以上のものはないといわれるぐらい完成された駒字ともいえるだろう。
駒銘は一目瞭然、鮮やかで力強く見る者に迫ってくる。初期は「宮松作」、中期は「影水作」、後期はそれらの2種類が混在していたという。ただし、どちらかというと、「影水作」に出色の作品が多いといわれている。
※ 取材協力・資料提供/宮松登美
宮松影水 |
かつての名工のみならず、現代作家も含めて最も人気がある駒師といえば、影水であることは異論を挟む人はまずいないだろう。残された影水作(宮松作)の駒は、駒マニアたちの間で、もちろんその駒の出来次第なのはいうまでもないことだが、バブルが弾けた現在でも高額で取引されているという。影水の駒が、なぜこれほど人気を博しているのか、宮松影水こと本名・宮松幹太郎の人生を少し追って、その魅力に迫ってみる。
昭和3年(1928年)10月7日、宮松関三郎七段(追贈八段)の長男として、東京の下町・根津に生まれる。関三郎と同じ棋士仲間の豊島龍山亡きあと、遺族が疎開することになり、そのとき残った駒木地を関三郎が譲り受け、それをきっかけとし宮松家の駒作りが始まった。父親の関三郎は、やがて子の幹太郎に駒作りを手ほどきする。ときには「おまえの駒には品がない」と、関三郎は幹太郎を叱責することもあったという。
家業となった駒作りを手伝いながら、戦後は大学に通っていた幹太郎だが、昭和22年(1947年)に一家の大黒柱の関三郎が心臓マヒで急死。まだ若い幹太郎の肩に、母親と幼い兄弟を養う重責がのしかかった。やむをえず大学を中退し、幹太郎は本格的に家業の駒作りに取り組むこととなった。
その後、根津の盤駒店(現在は奥さんの宮松登美さんが住む)で、注文受けの駒作りを営んだ。当時掲げていたのが「将棋・碁盤駒製作処」という、幹太郎自作の看板(左写真・かろうじて読める)である。幹太郎は駒だけでなく、駒箱や駒台なども夢中になって作ることもあったという。幹太郎こと影水の、駒だけにかかわらず、物作りへの情熱とこだわりがうかがえてくるエピソードである。
少し話を戻すと、宮松関三郎は愛知県出身で、実家は宮大工だった。幼いときから関三郎は才知にすぐれ手先も器用だったので、宮大工の修業で東京に出てきたが、将棋が強くのちにプロ棋士になり、七段という高段にまで昇ったのである。弟子の養成にも熱心で、木村義雄十四世名人(関根金次郎十三世名人門下)が若いときに、その非凡さを認め関三郎は指導もしたという。
そんな父親の遺伝子を譲り受けたのか、幹太郎も子供のときから軍艦や飛行機を木片で作ったという。学問もなかなか優秀で東京市立二中(現在の都立上野高校)へ合格。やがて戦火が激しくなり、海軍予科練に幹太郎は入隊した。パイロットをめざしているうちに、終戦を迎える。そのような時期に、幹太郎が描いた絵(下記写真)が残されていたので掲載しておこう。天才駒師とのちに称された、影水の思いや芸術性を彷彿とさせる。
幹太郎自筆の戦艦
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「敵を知れ」と書いた米軍機
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父親以外師匠をもたなかった幹太郎は、駒作りは独学で切り開いていくしかなかった。生来の凝り性で研究熱心な性格からか、幹太郎は書体の研究や歴史を調べるために図書館通いもしたという。書体とのバランスを考え尽くした結果、現在の駒形になったとされる。つまり、そのような幹太郎の駒に対する熱き思いが、隠れた魅力となって「影水流」の駒作りへと開花していくのである。その駒作りに使用された道具のいくつかは、最後に紹介しておくので、ぜひご覧いただきたい。
現在でこそ人気を博している影水駒も、生前は現在のような高額ではけっしてなかった。当時の価格では、盛り上げ駒でさえ1万〜3万円が通常で、最高の木地でも5万円くらいだったという。もっとも現在の価格に直せば、1桁は違うかもしれないが……。ちょっと異常と思われるような影水人気高騰の取引では、さんざん使われて漆が磨り減った駒でも100万円近くもするとは、影水自身もあの世で苦笑している気がする。
駒作りに励む関三郎(左)と幹太郎(右)親子。
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自らしたためた写経を背に宮松登美(美水)さん。
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家業が少しは落ち着いたころに、幹太郎は登美さん(上写真右)と結婚する。以前から勤め(経済企画庁)ていた登美さんは、結婚後もしばらくは勤めを続けた。やがて二人の娘が生まれ、幹太郎も父親と同じく宮松家の大黒柱になっていた。
まもなく登美さんも勤めを辞め、駒作りを手伝うようになる。「駒をやるなら勉強しろ」と言って、実際に幹太郎は教えることはなかったが、サビ漆を使った彫り埋めの作業は、登美さんの仕事になっていく。
若き駒師夫妻が、親としての顔を見せた俳句があるのでちょっと紹介する。ある人に宛てた手紙に書かれた俳句(左写真)だ。
右から2番目『みどり子の 手にもこぼれし 黄楊の花―幹太郎』とあり、幹太郎の作だ。「小さな子供の手に黄楊の花がいっぱいでこぼれそうだ」と解釈できる。もっとも「黄楊の花」は実際に宮松家に咲いていたとは考えられないので、もしかしたら「黄楊の花」とは「駒木地」のことではないかと私は考えてみた。「小さな子供が、駒木地をこぼれんばかりに手にいっぱい持って遊んでいる」と解釈すると、天才駒師・影水の親としての日常的なやさしい顔や視点が見えて、実にいい俳句に思えてくる。
最後の『みどり子と 梅雨の晴間の 水遊び―登美』は、奥さんの登美さんの作。こちらは解釈するまでもなく、親の情愛がにじみ出ている句だ。
しかし、日常的な小さな幸せに満ちた宮松家の暮らしは、そう長くは続かなかった。
話し好きの幹太郎は、お客(プロ棋士がよく出入りしていた)が来ると、駒や木地の話に花を咲かせ、昼間はあまり仕事にならなかった。どうしても夜なべすることが多くなり、長い間には体に相当の負担をかけていたようだ。巷間伝わるほど飲んではいなかった酒だが、それも幹太郎の体を蝕む原因のひとつにはなっていた。
机上に作りかけの駒もそのままにして、病に倒れる。入院したときには、元来の医者嫌いもあいまって肝硬変はかなりひどい状態だった。昭和47(1972年)年3月19日、ついに帰らぬ人となった。以後、幹太郎こと影水に「夭折の天才駒師」という冠がつくことになる。
日本将棋連盟で使われる駒が、ほとんど影水駒になるくらい名前が売れ出したころだったので、遺族は悲しみだけでなく、すでに注文を受けた駒を何とかしなければならなくなった。奥さんの登美さんは、近くに住む駒師・金井静山に彫りだけでを依頼したり、まもなく自ら「美水」という号で駒も作りはじめた。ちなみに「芳雨書」(下記の掲載)とい駒字は、書をたしなむ登美さんこと美水のオリジナルである。
芳雨書島黄楊虎斑盛り上げ駒 上記でも紹介しているように、宮松登美(号・美水)さんは写経などをはじめ書道教室を行うなど、書には造詣が深い。 |
私自身が、じかに奥さんの登美さんからうかがった話で、忘れられない影水の言葉があるので、それを最後に取り上げておこう。
「駒はできたときがいちばんいいというわけだもないんだ。年数がたって磨り減って傷んでも、作り直すともっとよくなるんだ」
たまに頼まれて、私も使い込んで漆が磨り減った影水の駒を修理することがあるが、この言葉をよくかみしめ、亡き影水を偲んで作り直しに臨んでみようと思う。きっと影水に出会えるかもしれない。
巻菱湖のハンコ |
彫り台 |
駒整形台 |
瀬戸玉 |
駒整形台 |
乾燥台 |