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近代将棋駒の祖 豊島龍山 <とよしま りゅうざん>


菱湖書島黄楊根杢盛り上げ駒
(石上義孝氏所蔵)

 
 「書体への誘い・菱湖(巻菱湖)」(▼別項参照)の書体の由来のところで取り上げた字母紙(下記画像)が、豊島龍山の残したもの。その実物の駒が、2010年11月に開催した「将棋駒研究会の展示即売会」(▼別項参照)の会場にて、持参していただいた方がいらしたので、撮影しここに掲載させていただくことにした。
 写真では大きさはよくわからないだろうが、実物は現代の駒に比べると、かなり小ぶりである。古色を帯びた根杢の味わいに、流麗な「菱湖」の文字が駒形いっぱいに収まっている。駒銘(上写真)は、ご覧のとおり「龍山作」で彫りである。
 私(酔棋)自身、駒に携わって30年以上にもなるが、これまで「龍山作」の実物の「菱湖」お目にかかったことがなかったから、驚きを禁じえなかった。この駒は龍山作によく見られる盛り上げの漆のぽっちゃり感もあまりなく、書体と同様に洗練された作りで、後世の「影水作の菱湖(巻菱湖)」(菱湖の決定版とされている)の源流となったことを、喚起させる。
 『豊島字母帖』に残された「巻菱湖」には、「玉将」が押されていなかったので、実物の「玉将」(上写真参照)で、その流麗な文字の味わいが明らかになったのである。


董仙書島黄楊虎杢盛り上げ駒
(杉亨治氏所蔵)

 空間の多い駒字(董仙)が、やや派手な虎杢にピッタリとマッチ。漆が少し茶色みを帯び、何ともいえない味わいだ。私がこれまでに拝見した龍山の作品のなかでも傑作の一つだろう。 「豊島龍山作」の駒銘は珍しい。


関根名人書島黄楊板目盛り上げ駒
(山口洋一氏所蔵)

 
 駒銘の「関根名人書」から類推できるように、関根金次郎十三世名人が由来の書体だ。といっても、実際に関根名人が駒銘を書いたとはいえないようだ。駒の依頼を受けた豊島龍山が、関根に代わってしたためたといわれている。
 この駒は実際に、晩年関根名人が使用していたものだという。写真(上左)がこの駒の駒銘で、ただの「関根名人書」ではなく「十三世名人関根書」と入っているものは、今まで私が拝見したかぎりではこの駒だけだ。
 また、1936年(昭和11年)将棋大成会創立を記念して、関係者に配られた駒(50〜60組)のうちの一つを関根自身が持っていたと考えられる。王将の裏(上右の写真)に「冠峰山人寄贈」と彫られているのは、その当時、将棋大成会大同団結に尽力した小菅剣之助名誉名人のこと。

        

董齊書島黄楊根杢彫り駒
(杉亨治氏所蔵)

 「歩兵」と「桂馬」を除き、あまり特徴のない駒字。龍山の作の彫り駒で、これだけ状態のいいのはまれである。「龍山作」の駒銘は一般的である。

 


 


錦龍薩摩黄楊板目彫り駒
(柿島佳行氏所蔵)

 残っている彫り駒は、このような状態のものが多い。駒だけではなく、駒箱も歳月を十分に感じさせる。
 たまに古道具屋などで見つかるのがこのての駒。「豊島作」これもよくある駒銘。



水無瀬大納言兼俊卿筆跡島黄楊根杢盛り上げ駒
(前沢碁盤店所蔵)

 かなり古いもので、初代・龍山作といわれている。
 仰々しく「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」と書かれた駒銘は、一種の畏怖さえ抱かせる。
 水無瀬の書体自体はほとんどの駒師が作っていて、比較的ポピュラーだが、不思議なことに「豊島作」の水無瀬は、これまでにこの作以外に私は拝見したことがない。

駒師・龍山作(豊島作)の駒の特徴

 小ぶりな駒形に、盛り上げの漆はややたっぷりとして厚め。ただし、書きっぷりは大胆かつ繊細で力強い。書体はそれほど装飾的でなく、どちらかというとあっさりしている。
 書体は『豊島字母帖』の開発者だから、他の駒師が龍山の書体をまねて作っていると考えていいだろう。
 駒銘は見ておわかりのように、流麗で素晴らしい。「龍山作」「豊島作」「豊島龍山作」といろいろあり、駒銘製法も「書き、彫り、盛り上げ」と実に多彩だ。なかでも一般的に多い、「龍山作」は普及品に多く見られるようだ。

■龍山親子の駒作りは
数々の創意工夫を生んだ

初代・龍山
(豊島太郎吉)
1862〜1940年
2代・龍山
(豊島数次郎)
1904〜1940年

ふたりの龍山

駒師の命ともいわれる版木の原版.。
和紙に朱肉で写して、駒に貼って使う 。

 将棋の歴史とともに将棋駒(最初は書き駒)が出現してから、江戸時代末期〜明治初期までに、その他の製法(彫り駒、彫り埋め駒、盛り上げ駒)が確立したとされている。江戸幕府による将棋所が崩壊後、家元であった大橋本家(大橋宗金=12代宗桂)でさえ駒作りを生業にしていたという。多くの在野の将棋指しは、将棋だけでは生活ができなかったのである。
 そのような時代の潮流の中で、近代将棋駒の祖とされる豊島龍山が出現する。といっても「龍山」は駒師名の号で、初代龍山・豊島太郎吉(1862〜1940年)と2代龍山・豊島数次郎(1904〜1940年)の親子二人をさす。東京・浅草で材木商を営んでいた将棋好きの旦那・太郎吉は、関根金次郎十三世名人から六段を允許されている。将棋の魔力にとりつかれたのが原因なのか、家業はすっかり人任せとなり、結局は人に譲るはめになってしまう。
 その後、大正の半ばころに谷中に移り、以前から手内職としていた駒作りを本格的に始めるようになる。幼い数次郎にも、駒作りを教え込んだという。

駒作りの工夫と情熱

 龍山親子は、それまでの駒作りにさらに数々の創意工夫を加えて、駒に道具以上の付加価値をもたらした。つまり、芸術的味わいを駒に加味したのである。
 その一つが、駒師の命といわれる駒の書体に力を入れたこと。「書体への誘い」で少し紹介しているように、22種類の書体を収録している『豊島字母帖』(参照:錦旗字母)を作成。新しい書体を創作開発し、版木にして残したのも龍山である。
 また、主たる駒材となる黄楊に「虎斑」や「赤柾」などと命名し、黄楊の美しさをより引き立てたのも龍山の功績であろう。現在のような「木の宝石の黄楊に漆の盛り上げ駒」という高級駒の原型を龍山が作り上げたといっても過言ではないだろう。
 ただし、実際にはすべての駒を龍山親子が作ったわけではない。何人かの職人も抱えていたからか、残された作品にも出来不出来があるようだ。つまり、「龍山」は一種のブランド名なのである。初代・龍山は駒作りそのものはあまりしていなかったようで、名品はほとんどが2代・龍山のものとされている。その数次郎が先に亡くなった昭和15年(1940年)に、太郎吉も後を追うようにして亡くなっている。

 

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