左が細字、右が太字。 |
プロ棋士のタイトル戦などで、最も使用される書体の一つといっても過言ではない。中原誠十六世永世名人をはじめ、この書体が好きなプロ棋士は数多いという。
人気があるからほとんどの駒師が作っている書体で、実際に駒銘としては「菱湖」「巻菱湖」の2種類が見受けられる。しかし、駒師の個性の違いを除けば、基本的には二つともまったく同じ書体である。
また、夭逝の天才駒師・宮松影水(1972年没)は菱湖(巻菱湖もあり)を得意としていたが、それにも細字と太字の二つのバージョンを作っていた。
ちなみに、左の写真は私の作ったものだが、それぞれ左が細字の玉と歩(虎斑/上段のものとは別な駒)、右が太字の玉と歩(縮み杢/上段のもの)だ。違いがわかるだろうか?
かなり前から知られているから、相当古い書体のように思われがちだが、実際にはそれほど古くはない。朝日新聞観戦記者・東公平氏が、かつて雑誌の「菱湖の駒銘」という記事でそのあたりを明らかにしているので、以下に要約してみる。
かつて大阪に高濱作蔵(たかはまさくぞう)、禎(てい)という兄弟棋士がいた。兄の作蔵(五段)は、伝説の将棋指し・阪田三吉(のちに贈名人・王将)の秘書のような役を務め、弟の禎(六段)は、後で説明するように駒に造詣が深かった。要するに高濱兄弟は、阪田の門弟というより、むしろ後援者であったと思われる。大きな質屋のぼんぼんであり、そろって文学青年で相当の教養を身につけていた。
その高濱禎は『萬覚え帳/大正五年拾壱月始』という、知人の住所録をはじめとするいろいろな覚書きを子息に残していた。その中に、将棋に関するメモや随筆、「所蔵駒目録」が書き込まれてあった。
さて、本題の菱湖に戻る。ちなみに、巻菱湖(まきのりょうこ)は、各種の書道手本を残した江戸後期の書家。その書家の字が駒銘となるいきさつが、やはり『萬おぼえ帳』に記されていたのである。
「巻菱湖の文字而巳を集めて駒の銘成らず哉諸書を調査す」(大正8年、上記資料)
つまり、「巻菱湖」の駒銘は、禎自身が巻菱湖の字を駒字に作り替えたものなのである。たとえば桂馬は、手本に「桂」の字がなかったので、「佳」の字に他の字の「木偏」を持ってきて「桂」とする。このような駒銘の確立が、意外と多いのである。実際に高名な書家が駒の書体をわざわざ残す場合のほうが、きわめて珍しいといっていいかもしれない。
禎自らそのようにして作った駒字を、当時駒を購入していた東京の駒師・豊島龍山に依頼して、作らせたのが「巻菱湖」の始まりとなる。書家の字をもとに、禎と龍山の合作こそが「巻菱湖」なのであろう。
ちなみに、このHPでも紹介している私の作品「俊歩禎好」(第213作)は、『萬覚え帳』に禎自らが書き残したもの(将棋駒研究会の北田義之氏が原本の字母紙を作成)を、パソコンで私が字母紙を作り直し、駒に仕上げたものである。参考にそちらもごらんいただきたい。
『豊島字母帳』の「巻菱湖」。不思議なことにこの字母紙には玉将がない。 |