この「清安」は、クスノキ製の駒箱にふだんは収まっている。友人と一緒に「一歩」に私(酔棋)が顔を出すとき(軽く飲んで将棋を指す)は、いつもこの駒で指すことにしている。もちろん私専用の駒というわけではけっしてないのだが、お客さんのほとんどは、下記のもう一つの駒「淇洲」で指すことが多いようだ。
日常的に使うのは、書き駒の「淇洲」で、ちょっとよそゆき(特別な対局)なのが、盛り上げの「清安」ということなのだろうか。もちろんママ(吉田純子さん/下記写真)をはじめ、誰もそんなことを決めたわけではないのだが、何となくお客さんに伝わっている、暗黙のメッセージなのかもしれない。この駒の作者であり贈呈者でもある私は、特別に許されていると思うと、うれしいやら恥ずかしいやら、何ともいえない気持ちにさせられる。
この「清安」は、宮松影水作のものをもとにして作った。ちなみに「書体への誘い・源兵衛清安」に掲載している「清安」(金井静山作がもと)とは、名称は同じでもまったく違った書体に見える。むしろ、「作品ライブラリー」で掲載している「龍山安清」(私の日常的に使っている駒)のほうに、似通っているかもしれない。
「一歩」に来るお客さんは、当然なことに普通のサラリーマンも多いが、将棋のプロ棋士のみならず碁の棋士も多く現れる。ママの吉田純子さんは、初段の棋力で、たまに観戦記なども書いたりする女流アマだ。
そんなママが店を始めて十周年(1998年)を迎えたときに、一つの記念として以前に作って手元に置いてあった「清安」の玉将と王将(上の写真参照)に、店名などを彫り埋めで入れて差し上げたものである。
「一歩」の駒形看板のすぐ脇が入り口。 |
沖縄出身の吉田純子ママ、棋力は初段。 |
バブルのころは東京・新宿のゴールデン街も、地上げ屋のせいでいくつか空き店が増え、どうなるかなと思っていたが、最近ではかつての盛況を取り戻しているようだ。小さな飲み屋がひしめき合って、夜中いや朝方まで千鳥足の酔客が、あっちをウロウロこっちをウロウロと闊歩している。
全部で200軒近くはありそうな飲み屋街の一角に、白い駒形看板の「一歩」が目に入る。ゴールデン街にはよくある小さな飲み屋(カウンターの椅子が9脚、ボックスが1つ)で、2003年9月で開店15周年を迎えるという。夜の7時開店で原則は深夜の1時閉店だが、閉店時間を過ぎても飲んでいたり、将棋好きの客が指していることもたまにある。ママひとりの店だから、ママの気分次第で閉店時間も変わるようである。
ママが沖縄出身だからか、ビールやウイスキーの他に、カメに入った古酒(クースー)もある。普通のサリーマンが常連客のメインにはちがいないが、この土地柄に合った一風変わった客も訪れる。その混沌さが、まさにゴールデン街らしいところなのかもしれない。ママを含めた常連客で、お花見の屋形船や将棋大会などもかつてはよくやっていたから、ファミリー的な飲み屋の一面もある。その分一見の客にはとっつきにくいこともあるが、姉御肌も持ち合わせているママに任せておけば大丈夫である。
淇洲島黄楊板目書き駒 上記で紹介したいつもお客さんが使っているのが、この「淇洲」である。私が制作した初めての書き駒だ。 |
いくら飲みながら将棋を指すからといっても、「一歩」ではママが客に励行しているそれなりのルールがある。
「駒箱から出して使った場合、必ず駒の数を確認してからしまうこと」「駒には酒やビールをこぼさないように注意すること」「みんなで仲よく使うこと」などである。
以上のことを励行して、酔客がちゃんと守っているかと思うと、ちょっと苦笑い。盤上から、文字どおり「1歩」(ここでは1枚の歩)飛んだだけで、男たちが右往左往してその1枚を捜す姿は実にほほえましい。ママの将棋に対する情熱と、お店を取り仕切る責任感がそうさせているのだろうか。
私が店に顔を出すと、「1枚も駒はなくなってないからね」と必ずママはひと言いう。差し上げてから20年もたっているのに、1枚もなくすこともなく、損傷もたいしたことがないというのは、ママの思いがこの「淇洲」にこもっているのかもしれない。私も思わずコマーシャルではないが、「20年指しても大丈夫」と言いたくなった。
※2008年、「一歩の20周年」祝いとして「源兵衛清安(第298作)」を新しく作って差し上げた。現在ではその駒を使うようにしている。古い「淇洲」は、傷みもひどくなってきたので、作り直して「一歩」の常連さんに差し上げた。
唯一のボックス席が対局場に変わる。谷川浩司竜王(当時)とママのツーショットの写真の前で。 |
ママの対局相手は、この店の常連客の一人北野豊氏。棋力は三段だから、ママが苦しいかな(?)。 |
もうかなり以前のことで私が店に行ったら、ママが「毎日使っているので、ちょっと汚れてきたから何とかならないか」と私に言った。そこで、この「淇洲」の汚れをとって磨くことにした。とはいうものの、道具や椿油がここにあるわけもない。
――ついでにみなさんも知っておいたほうがいい、汚れた駒をきれいにする情報をここで紹介しておこう。まず牛乳(水はダメ)を小さな小鉢に入れ、ティッシュにつけて駒の汚れをとる。すべての駒をやってから、次に油(椿油かクルミ油)を同じようにつけて磨き、最後に布でカラぶきをする。これでかなりきれいになるはずである。ただし、これは汚れた駒に行う適切な方法で、通常の駒の手入れには油をつけず(油のつけすぎはよくない)に、布でカラぶきが一番である。油を使うとしても、たらす程度(1、2滴のごく少量)で十分である――
お店だから、牛乳はあったのでとりあえずそれで汚れを落とした。 しかし、椿油はない。そのままでは油っ気が足りなくなる。そこで、料理に使っているごま油を代用することにした。色の具合も飴色で駒にはよさそうだが、ただし駒にごま油の香りがついてしまった。しばらくは匂ったが、数日後にはその香りもすっかりなくなった。
これが、「一歩」でごま油の香りがする駒の裏話である。
今夜も遅くまで、ゴールデン街の一角に駒音が響く……。