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枯淡の味わい 木村文俊 <きむら ふみとし>


木村名人書島黄楊虎斑盛り上げ駒
(三上勉氏所蔵)

 「木村名人書」は文字どおり木村義雄十四世名人の書いた駒字。本当は、実弟の木村だけに許された駒銘かもしれない。
 ちなみに「木村名人書」は双玉仕立てでもある(別項「書体への誘い・木村名人書」参照)。
 また、「木村文俊作」と駒銘に名前も入っているのは、力を入れた作品なのだろうか。


玉舟書島黄楊赤柾盛り上げ駒
(杉亨治氏所蔵)

 この「玉舟書」も木村独特の駒銘である。駒字の筆のハイリやハネが鋭いのは、この駒に限らず木村作の特徴の一つといってよいだろう。
 この駒にも見られることだが、表字が駒形いっぱいなのも、木村作の駒表現であろう。


菱湖書島黄柾目彫り駒
(三上勉氏所蔵)

 意外と多いのが、彫り駒の木村ファンだ。このHPでおなじみの漫画家の永島慎二氏もその一人。
 木村の晩年の彫りは「血が出てくるような彫りで素晴らしい」とコメントしている。
 駒写真の中の駒袋は、木村の独特のものである。


菱湖書島黄楊虎斑盛り上げ駒
(花田信一郎氏所蔵)

 上記と同書体の盛り上げ駒バージョンである。駒木地も、それにふさわしくかなりの虎斑だ。
 この駒は、所蔵者の花田氏の父親が、今から40年以上前に亡き加藤治郎名誉九段からいただいたものだという。
 その父親も現在では他界し、花田氏にとっては幼きときから父親と指していた形見の駒となったのである。それが歳月を経て、とくに裏字の漆は磨耗し、下記に紹介するように「金将」など、漆が飛んだものも出てきた。
 傷ついた父親の形見の駒を、花田氏は気になっていた。そこで、このホームページを検索し、私(酔棋)に駒の修復を依頼してきたというわけである。

直した「金将」

 別項「あの駒は今・父親の夢を乗せた中座五段の駒」でも取り上げているように、駒の修復(主に名工の作)や駒の欠損制作を、たまに私(酔棋)は依頼されることがある。
 この駒は同じく木村作だが、影水作や龍山作もかつて修復したこともある。駒の修復を通して、昔日の名工たちに出会えるような気もしてくるから、新しい駒を作るのとは異なった喜びを感じさせてくれるのである。
 花田氏は将棋は指しても、駒の手入れ方法がよくわからなかったからか、40年以上も経たこの駒は傷んでいるだけでなく、汚れて黄楊の色合いもすっかりくすんでしまっていた(修理前の左の「金将」参照)。そこで、「金将」の修復は当然なこととして、全部の駒の汚れを取り磨き直して、リニューアルを試みた(修理後の右の「金将」参照)。
 「駒が甦っただけでなく親父が甦ったようです」との花田氏の言葉は、修復者冥利に尽きるといってよいだろう。

赤丸()の箇所の漆が飛んでしまった。
漆が飛んだ赤丸()の箇所を修復した。

金龍書島黄楊虎斑盛り上げ駒
(杉亨治氏所蔵)

 この駒も木村作の鋭いハネやハイリの特徴がよく出ている。
 ちなみに「金龍書」という駒銘はかなり古く、元は書体名ではなく江戸時代の駒師の名であった。


駒師・木村作の駒の特徴

 上記の駒を見ておわかりのように、駒形はやや縦長で奥野作と同様に末広がりの角度が鈍角である。この特徴はことに晩年に顕著で、俗に「木村形」といって、一部のマニアには好まれているようだ。
 また、上記にも書いたが、木村の書体はほとんどが、筆のハイリやハネが鋭くとんがっていることだ。オーソドックスな書体はだいたい作っているが、その他に独自の書体である「木村名人書」「玉舟」などを得意としている。
 駒銘は実際の駒そのものの製法にかかわらず、すべてしっかりとした彫りである。また、ちょとくすんだ茶色味を帯びた彫り駒の漆(木地呂と思われる)は、木村駒の独特の味わいともなっている。

■枯淡の味の駒の裏に
江戸っ子の粋が垣間見られる

木村文俊
1908〜1984年
写真/竢o版

大名人の威光は反骨精神を生む

 実力制名人戦で初代の名人となり、のちには将棋界の統率者としても君臨し、不世出の名人とうたわれた木村義雄十四世名人の実弟が、駒師・木村文俊(1908〜1984年、本名・正利)である。東京・本所の生まれで、名人の口利きで豊島龍山に弟子入りする。年季の明けないうちに、修業に耐え切れず飛び出し独立する。その後、墨田区押上で盤駒商を営み、独自の駒を作りつづけた。
 名人の威光を得てか、多量な注文をこなすため、一時期は職人を雇うなど、相当に羽振りがよかったという。最盛期の木村駒の人気は、宮松影水をしのぐほどの勢いだったともいわれている。
 木村名人のご子息でプロ棋士の木村義徳八段(木村にとって甥にあたる)に、『NHK将棋講座』の取材のとき私がうかがった話を、要約してご紹介しよう。名人の威光の一端が見え隠れしている。

 ――叔父である駒師・木村は、名人から注文された駒は、かえって後回しにしてなかなか作らなかった。ただし、お金が必要とあらば、名人の家へ駒を持ってくることもあった。身内にとって、名人の威光や七光(義徳八段にとって)というものは、かなりの重荷になる。ことに叔父も若いうちには、それが反発心に変わっていたようだ。考えてみれば、その反骨精神こそ、「木村駒」の源泉だったと思うが……。
 少年時代(義徳八段)、それも小学校に上がる前ころには、叔父の家に泊まりがけ遊びに行ったりもした。かつて下駄職人だった祖父が、叔父の駒木地作りを手伝っていたのを、幼心にも覚えている――

 ちなみに、木村八段は叔父の駒(木村名人書)を六段の昇段祝いとして、名人からいただいたという。

素朴な彫り駒こそ枯淡の味わい

 晩年の木村に会ったことのある人の話では、「ネクタイを締めているようなやつには売らないよ」と、生粋の江戸っ子のベランメエ口調だったという。下町の職人のための駒は作っても、背広姿の金持ちなどには駒は作らない、という口の悪い職人気質なのだろうか。
 見た目に華麗な盛り上げ駒よりも、けっしてうまいとはいえない素朴な彫り駒こそ、枯淡の味わいの木村の人柄そのものであり、魅力ともいえる。そのような「木村駒」を愛する人の一人として漫画家の永島慎二氏の「思い」を掲げておく。
 永島氏は上記の「菱湖」でも、「血が出てくるような彫りで素晴らしい」と述べているように、木村の彫り駒を絶賛している。それも木村名人が名人位を失ってからのほうが、木村作の彫り駒はさらによくなっているという。つまり、威光がなくなってそれほど駒が売れなくなってからのほうが、枯淡の味がより深まっていることをさしているのだろう。
 芸術の世界では、「うまい」「上手」といったその上に、「よい」という世界があるという永島氏独特の感性が、木村の彫り駒にその世界を見いだしているようだ。ひとつのおもしろい駒の見方ではないだろうか。

 

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