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4.読者プレゼントは風変わりな書き駒―大阪の駒好きに今も育まれている


別カット


淇洲書島黄楊板目書き駒
酔棋作
(第121作)
田中賢一氏所蔵

※雑誌の切り抜きを除き、このページのすべての写真は、最下段で紹介している田中敦氏によるものです。ちなみに私(酔棋)からの取材・撮影の依頼を、田中敦氏が快く受けていただき、このページが実現しました。実際の駒の所蔵者である田中賢一氏とともに、両田中氏にとても感謝しています。

『NHK将棋講座』の読者プレゼントの駒

『NHK将棋講座』1994年2月号(駒暦No11)より。写真をクリックすると拡大します。

 表が深緑、裏が赤という一風変わった色漆を使ったこの書き駒の「淇洲」は、1993年に制作したものである。
 1993年4月〜2000年3月まで7年(7シリーズ)にわたって、私(酔棋こと増山雅人)が連載していた『NHK将棋講座』の「駒シリーズ」の第1弾が、「駒暦」(1993年4月〜1994年3月)であった。そのとき1994年2月号に初の読者プレゼントとして作ったのが、この「淇洲」なのである。
 そのときの雑誌の切り抜き(右写真)が、当時の記事である。この「駒暦」は、駒の知識と駒の書体(12書体のみ)のいわれや歴史的背景をなどを写真(撮影/河井邦彦氏)とともに紹介したシリーズであった。
 たくさんのプレゼント応募があり、厳正なる抽選の結果、大阪の田中賢一氏が当選したのである。以来、田中氏の秘蔵の駒となり、私としても今回この企画で写真とはいえ、久しぶりに拝見したというわけだ。
 当時、私は別項「あの駒は今・1.将棋酒場『一歩』」の中で紹介している、同じ書体の「淇洲」(第117作)の初の書き駒をはじめ、かなり書き駒を凝って作っていた。そこで、駒木地は板目ではあるが、雑誌に掲載するために色漆を使ったこの駒を、記念に読者プレゼントとしたのである。


◆初対局は、駒好き仲間に見守られ

平箱に収めた「淇洲」を手に、田中賢一氏。この箱書きにはひとつの秘密が……。

田中賢一氏はかなり以前から、ある駒作りの会にも入っていて、駒好きなだけでなく自らも駒を作っている。この写真の駒が田中氏の作品で、書体は「安清くずし」。この駒木地は、大阪の深彫りで知られた今は亡き八代目駒権のところから、手に入れたシャム黄楊だ。荒い整形が、昔風の「安清駒」に合うと考え彫ったもので、「駒権の記念品」として思い入れがあるという。


プレゼント当選当時を振り返る

 この駒の所蔵者である田中賢一氏は大阪在住で、私(酔棋)と同じ団塊の世代である。上記にも述べたように駒作り歴は古く、住まいが大阪ということもあって、詳細は後述するが、現在は「大坂駒」に興味をもっているという。
 ちなみに同姓であるが、このページの写真を撮っていただいた田中敦氏とは、ある駒好きの集まりで知り合いになったという。
 さて、『NHK将棋講座』の読者プレゼントに当たった当時の心境を含めて、この「淇洲」について田中賢一氏にうかがった。


 NHK将棋番組は、だいたい見ていましたが、最初のうちは『将棋講座』の本は買っていませんでした。酔棋さんの「駒シリーズ」は終わるまで、楽しみに購読しました。本当に月1回の発売日が待ち遠しかったです。
 「読者プレゼント」には、一応、応募したのですが、今まで当たり運などまったくなかったので、当たるつもりはありませんでした。
 はっきり申し上げると、応募者が一人でも増えれば著者の酔棋さんも、あのNHKさんに鼻も高いだろうと思い(相すみません)、使い残しの年賀はがきで応募させてもらいました。
 だから、実際に荷物が宅配されて、嫁さんから、「NHKから何か来ているよ」と言われても、「何の用、心当たりないなぁ〜」思って、梱包を解いて大ビックリした次第です。
 当時選にもれた他の方々、本当にごめんなさい。
 年月を経て、あの鮮やかな赤と深緑の漆色もしっとりとし、いっそう深味を増して一段とよくなりました。


 どちらかというと、このようなプレゼントは、無欲な方に当たるもののようである。
 『将棋講座』の読者プレゼントはこの「淇洲」が最初で、たしか3回行ったと思う。他に当たった方が、このHPをご覧いただいていたら、ぜひ私までご連絡いただきたい。
 ちなみに、2005年3月くらいには、このHPでも「第2回プレゼント駒抽選」を予定していますので、その節はご応募をお待ちしています。無欲な方に当たるかも?

秘蔵駒の指し初め

 プレゼント当選以来、「漆をとばしては大変、小傷でもつかないか」と心配で、田中賢一氏は、もっぱら鑑賞用としてこの駒を秘蔵していた。
 そこで実戦で使うのは、この写真を撮影した「関西駒の会」の例会での田中敦氏との対局が、この「淇洲」の指し初めだという。
 「関西駒の会」の名称は、このHPでもおなじみの将棋駒研究会会長・北田義之氏が命名したという。
 会の内容は、指し将棋をされる方半分、駒談議をされる方半分、いつも20人前後の参加があるらしい。まだ始まったばかりの会ではあるが、関西人特有のノリで楽しくわいわいやっているとのことである。
 2004年の6月から駒の好きな人が有志で集まり、2・5・8・11月の第4土曜日に関西将棋会館で例会を開いている。関西方面の駒好きは参加してみるのも一興かもしれない。
 田中賢一氏の「大坂駒」に対する熱き思いを、以下に聞いてみた。


 私は、今とりあえず「大坂駒」の書体収集をめざしております。
 子供のころ、友達の家にあったような、将棋駒が自分も欲しくて、家にあったミカン箱の板材を何とか五角形の駒形にして、その後ハタと困ってしまいました。モデルになる、彫り駒の字がよくわからない。とくに歩の「丁三」や銀の略字がまったく意味不明。悩んでいるうちに、親に駒木地を見つけられて捨てられてしまいました。
 当時は、「本将棋」は賭け事として忌み嫌っていた風潮があったようです。そんなことやいろいろあって、「大坂駒」に興味もつようになりました。
 以下、田中仮説として「大坂駒」で調べてみたい事柄です。

 (1)京大坂は「将棋文化」(将棋駒)の発祥地。
 (2)大坂流の略字は安価な大衆用の商品。
 (3)それまでは、書き文字のものがあった。 
 (4)大坂の細見案内書である「難波丸綱目」の延享5年(1748年)版に「将棋駒 唐物町」の記載あり。
 (5)大坂の豪商鴻池家に残されている享保雛(伝)(1700年代後半)には、立派な三面があり、とくに将棋の書き駒は実見したが、実に見事。

 作る人がいなくなった「大坂駒」を拾遺するという気持ちで、今のうちに「大坂駒」の書体、独特の大坂彫りの技法、製法(手早く作る方法など駒職人の苦闘の跡として)や駒作りの人々の系図がわかれば、調べてみたいです。
 とくに注目しているのは、簡略記号の駒文字です。当時のアイデア、ヒット商品だったのでは? これにより、安価で耐久性のある駒が大量に出回り、貧しく文字の読めない庶民階層にも「将棋文化」が普及していったのでは?
 本音を言いますと、「大坂駒の研究」は他の適任者にやっていただきたいのです。でも、私の周りの駒好きの人は、励ましてはくれますがご自身で研究してみようとは、思っておられないようです。ある友人は、真顔で「誰も、そんなこと興味も関心もないし、評価してもらえないですよ」と忠告してくださいました。
 でも、こんな変わり者が、一人くらいいてもいいのではないか。迷惑にもならないし……。私が「大坂駒〜」と一人声をあげ、友人知人が気の毒だからと、同調の声が集まると真の研究者が、出てきてくれるのではないか。その「ツナギ」や「きっかけ」の役目になれればと願っております。
 将棋駒がご縁で、みな様と楽しめることができれば、こんなにうれしいことはありません。


 田中氏のコメントを読むと、「大坂駒」に対する思いや情熱が伝わってくる。駒へのアプローチも、実にいろいろあることをあらためて私も思い知らされた。
 このような駒好きの方に育まれている「淇洲」は、きっと幸せな駒なのだろう。

もう一人の田中氏とは

田中敦氏の真剣な対局姿。

 今回の企画に、撮影などをはじめいろいろと協力していただいた田中敦氏とは、もともとはこのHPをご覧になって、私に駒制作を依頼したのが始まりであった。
 2003年11月に開催した「『駒の詩』第1回オフ会」にも参加いただき、その前くらいから自ら駒作り(号・剣心)も始めており、HP(I WANNA GET FUNNKEY「将棋の部屋」)も開設するぐらい駒にはまっている方である。
 ちなみに、田中敦氏依頼で私が制作した駒は、「作品ライブラリー・奥野錦旗(第225作)長録(第231作)」の2作である。
 実際に対局で指してみた田中敦氏にも、この「淇洲」の印象をうかがってみた。
 「緑色の駒も指していて、全然不自然に映らずに対局できました。『関西駒の会』のメンバーも、色漆の駒で対局するのは見たことはないが、意外に盤に映えると好評でした」
 とのコメントをいただき、書き駒に凝っていたころが思わず甦ってきた。

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