宗歩好島黄楊虎斑盛り上げ駒
酔棋作(第185作)
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私の得意としている書体のひとつが、この「宗歩好」である。それは別項の「名工の轍・奥野一香」で、取り上げた日本将棋連盟所蔵の「関東の名人駒」と称されている「宗歩好」(奥野作)に影響を受けて、作るようになったのがきっかけである。
かつて『NHK将棋講座』の取材で、数多くの名工の駒にめぐり合ったが、なかでも最も私が魅かれたのが、先の「宗歩好」と、同じく連盟所蔵で前関西の名人駒と称された影水作の「巻菱湖」である。両方とも駒木地そのもは、それほどすごいものではなかったが、私の好きな言葉「使われてこそ名駒」をつくづく感じさせる駒たちであった。それらの名人駒をもとに字母紙を作り、現在の私(酔棋)の制作する駒に反映させている。
さて、上写真のこの駒「宗歩好」は、1998年に駒木地持ち込みで依頼されて作ったものだ。このような虎斑よりも、どちらかというと別項の「作品ライブラリー・宗歩好(第191作)」で紹介下しているような赤柾の駒木地が似合うと思ってしまうのは、先の関東の名人駒(古いから赤柾にも見える柾目)のようなの印象が強く残っているせいなのだろうか?
私がこの書体で駒を作るときは、名人駒の影響がかなり反映されているといえるのかもしれない。
駒好きでなくても、将棋好きなら「宗歩」という名前には覚えがあることだろう。つまり、幕末の棋聖とうたわれ、その将棋の強さから将棋十一段(十三段という説も)とも恐れられた、天野宗歩(幼名・天野留次郎)がその主である。
在野の棋士であったがゆえに、天野宗歩(実際には七段)は将棋名人にはならなかったが、『将棋精選』『将棋手鑑』などの書物を残し、近代将棋の発展に大いに寄与した将棋指しであった。
天野留次郎が、「宗歩」と改名したのが嘉永5年(1852年)のこと。ちなみに「宗歩」は、「そうほ」または「そうふ」と読むのか、さてどちらが正しいのであろうか? 残念なことに、これには完全に根拠のあるものは残されていないが、どうやら「そうほ」と読むのが一般的らしい。というわけで、この『駒の詩』では、書体の「宗歩好」も、「そうふごのみ」と読まずに「そうほごのみ」で統一することにした。
では、実際の「宗歩好」という書体は、先の名人駒を作った奥野作が源流である。その奥野一香は、同時代に活躍した豊島龍山に対抗するためか、数々の書体を当時開発していた。この「宗歩好」も、そのうちの1つであった。
ただし、それらの書体は奥野の完全なオリジナルというより、古来から伝わったものを改良し命名したものが多かったようである。たとえば、「書体への誘い」別項の「錦旗」で紹介しているように、奥野の「錦旗」は「昇龍」がもととされている。この「宗歩好」も、古来から伝わった「安清」がもとになっていると推測できる。そのあたりは、後述を参考にしていただきたい。
とはいえ、この書体そのものの「素晴らしさ」と、奥野がつけたと思われる「棋聖・天野宗歩が好んだ書体」というイメージを彷彿とさせる、「宗歩好」というそのうまい命名には、ただただ感服するしかない。
玉方・詰め方の駒数が、閏年の月の大7・小6を表しているという説が有力。他には、斜め2線のラインが大小の刀という見方も。 |
上写真の盤面は、天野宗歩が作ったとされる詰め将棋である。「される」とあいまいに書いたのは、『読売新聞』の観戦記者であった菅谷北斗星氏が、昭和16年(1941年)に発見し発表したものだ。ただし、それまで宗歩の詰め将棋は、何も残されていないとされていたから、これが本物とはいえないらしい。
発見された図には、「嘉永五壬子歳 大小詰物 玉方之駒大 詰方之駒小 平安天野宗歩」と但し書きがあり、持ち駒の記載はなかった。
私はこれまでも将棋に関することは、駒をはじめとして何でもやってきたが、詰め将棋だけは最も苦手な分野である。その芸術性やすごさには魅かれるものもあるのだが、実際に難解なものを解いたり作ったりは、とてもではないがついてはいけない。
第191作の「宗歩好」を並べたこの詰め将棋は、チャレンジする気には毛頭ならない。ご覧になっている方で、詰め将棋が得意な方は、ぜひチャレンジしてみてはいかがだろうか?
ただし、この詰め将棋は単に解くのに難解なだけでなく、いろいろと謎を秘めているという。つまり多くの詰めキスト(詰め将棋マニア)がこれまでにも挑んだが、解けなかったというのである。
「1.図の誤り 2.宗歩の見落とし 3.意識的な逃れ図式 4.実際は詰むが宗歩ほどの棋力がないため詰まない 5.完成した詰め将棋ではない」の5つが、解けない理由として考えられるという。
チャレンジ精神旺盛な方は、ぜひ天野宗歩の詰め将棋の謎に挑んで、答えがわかったら私に知らせていただきたいものである。
細かい部分を除き、同系列の駒字と思われる。 |
同じものといってもいいぐらい似通っている。 |
左の桂が、やや左に傾いている。 |
微妙な違いを除けばほとんど同じ。 |
大きさも含めてところどころ違っている。 |
左の上から「玉・銀・桂・成桂・歩」が「宗歩好」で、右の上から「玉・銀・桂・成桂・歩」が「安清」だ。
それぞれの駒字で、見比べるのに適切と思われる箇所に赤丸「○」をしてあるから、参考にしていただきたい。
ちなみに、「宗歩好」(第191作)は上の詰め将棋と同じ駒で、「安清」のほうはふだん私が使っている「龍山安清(第195作)」だ。
ここですべての駒を取り上げるわけにもいかないので駒数は絞ってあるが、「宗歩好」と「安清」が同系列の書体であることは、左の駒を見るだけでもわかっていただけるはずである。
ここに取り上げなかったものでも、「と金」「成香」は、ほとんど2つの書体とも同じに見える。ただし、この「安清」では、「飛車、龍王、龍馬」などの大駒が異なって見えるが、龍山のものでない「安清」では、これらの駒字もかなり似通っているものもある。
まず「玉将」から解説していく。赤丸の「将」の字の最後のハネが全然違う処理だが、この場合は「安清」のほうのクルっと回っているほうが、どちらかというと例外である。
次に「銀将」は、駒字の大きさを無視すれば、ほとんど同じといってもよいくらいだ。「安清」のほうが、柔らかみがありそうな感じには見える。
「桂馬」は「馬」の傾きぐあいに違いが表れているが、「桂」の字の最後の画が右下がりなのはまったく同じである。これは、江戸時代から伝わる書体に、よく見られる特徴のひとつでもある。
「成桂」では、あまりにも微妙な違いで、2つの駒がまざってしまうとわからなくなりそうである(笑い)。もっともこの2つは、駒木地がまったく異なっているからすぐにわかるが。
最後の「歩兵」は、かなり違いが目立つ。特に「歩」の3画目の入り(赤丸)を、「宗歩好」で約しているのは、この書体独自の持ち味かもしれない。「兵」の字の3画目(赤丸)を伸ばさずに止めるところも意外と珍しい処理といえよう。
時には駒字(書体)をこのように分解してみることも、その書体を理解するのに役立つことを知っていただきたいから、ひとつの例として掲載してみた。