坂田好薩摩黄楊杢盛り上げ駒
酔棋作(第66作)
榎本直行氏所蔵
『関根名人記念館』にて撮影。 |
伝説の将棋指し、阪田三吉贈名人・王将(1870〜1946年)は、『王将』の歌やドラマ・映画などに登場し、将棋好きのみならずよく知られている。好敵手の関根金次郎十三世名人との歴史的対局は、近代将棋界の曙といってよいだろう。
その関根名人については、別項「書体への誘い・関根名人書」の中で紹介している『十三世名人・関根名人記念館』をご覧いただきたい。
さて、その阪田三吉は小説やドラマなどでは、「阪田」の「こざと偏」ではなく、「坂田」の「土偏」のほうがなじみがあると思う。しかし、観戦記者の東公平氏によると、戸籍名は「阪田」であるということが判明している。
そこで、私(酔棋)もかつては上記の写真「坂田好」(1989年)で作っていたが、別項「作品ライブラリー・阪田好(第162作)」にもあるように、1991年以降は、駒銘を「阪田好」に変えて作るようにしている。
私も最初のうちは、彫り駒や彫り埋め駒で作ることが多かったが、上写真の「坂田好」も、しばらくは彫り埋め駒にしておいてから、数年後に盛り上げ駒にし直したものである。
数ある書体の中でも、表字が篆書で裏字が楷書の筋彫り仕上げという、かなりの変わり種といっていいだろう。裏字の筋彫り仕立ても、私が作ったように盛り上げにしてみると、何ともいえない味わいを醸し出してくるから不思議だ。
下記に書くように、この駒字そのものを実際に阪田自身が好んでいたかどうかはともかくとして、駒銘としては「阪田好」でも「坂田好」でも、どちらでもいいのかもしれない。
※実際に残されたこの書体の駒(日本将棋連盟関西将棋会館の「将棋博物館」所収/下記参照)には、駒銘には書体名は入っていなく、「玉将」の脇に「坂田好」となっている。私が知るかぎりでは、残されたこの書体はすべてが彫り駒であった。
駒銘には、作者名だけが入っている。 | 「玉将」の脇に「坂田好」と彫られている。 |
阪田が生前に好んで持ち歩き実際に指して使っていたから、「阪田好」という駒銘になったというと実にすっきりするのだが、これも別項「書体への誘い・宗歩好」と同じようにそうとはいえないようである。
阪田に「馬」の字を教えた書家・中村眉山が書いた駒字で、記念の将棋大会の折に阪田の後援者らに贈られたものというのが、この書体の始まりであるとされている。つまり、阪田自身が使っていたわけでなく、記念贈答用としてあらためて作られた駒なのである。
文盲で知られた阪田だが、実際に書き残された縁起物の「逆馬」(馬の字を逆に書いたもの)は、なかなかいい味わいがあった。その阪田が実際に持ち歩いて使っていたのは、龍山作の「清定書」であったという、駒の取材中に聞いた未確認情報である。
以下に述べることは推測の域を出ないので、私(酔棋)の仮説として書いてみる。
別項「書体への誘い・菱湖」で解説している、阪田の門弟というか秘書的な役割をした高濱禎(たかはまてい)という将棋指しがいた。その高濱は、『萬覚え帳/大正五年拾壱月始』という、将棋に関するメモや随筆、「所蔵駒目録」が書き込まれてあった覚書きを子息に残していた。そのように駒にも造詣が深かった高濱は、覚書きの中に駒字も書いていた(下記資料参照)のである。
この資料を見ると、裏字の筋彫り仕立てをはじめ、「阪田好」にかなり似通っているので驚かされた。そこで、高濱が書いたこのよく似た駒字こそ、実は「阪田好」の原型なのではないだろうか、というのが大胆な私の仮説である。さらに阪田ではなく、高濱がこの駒字をもとに、中村眉山に依頼したような気さえしてくるのである。そのこのことに関して何かご存じの方は、ご一報いただきたい。
ちなみに下の資料をもとに、「将棋駒研究会」の会長・北田義氏は駒字を制作し、私もそれに改良を加えて、高濱の号・俊歩禎(しゅんぽてい)から、別項「作品ライブラリー・俊歩禎好(第213作)」という駒銘も作っている。
「萬覚え帳」に残された高濱禎が書いた駒字。 |