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漫画家・永島慎二
レクイエム(鎮魂詩)

 2005年6月10日、漫画家・永島慎二さん(享年67歳)が逝去なされた。
 駒を通して知り合った永島さんは、私(酔棋)にとっては同じ駒作り仲間というよりも、駒作りを超えた「心の師」ともいうべき存在でした。
 その永島さんに哀悼を捧げるつもりで、おもに生前の私との交流やふれあいをここに書きとめておくことにします。
 永島さん! 酔棋の鎮魂詩(レクイエム)を、温かいまなざしをもって天国で読んでください!


概略と構成

 ふたりの交流が始まったいきさつを振り返る前に、このページの概略と構成を少し述べておきます。
 永島さんの漫画家としての業績は、今さら私が述べるまでもなくみなさんによく知られていると思いますので、ここでは簡単にふれるだけにとどめます。
 すでにご覧いただいているみなさんが多いと思いますが、別項「永島慎二駒語録」には永島さんのプロフイールや自筆の自画像も掲載してありますので、合わせてお読みください。巻頭に掲げた版画の自画像は、永島さんの作品です。この作品以外にも、私が永島さんからいただいたもの(遊印)や、私のために描いていただいたいくつかの絵も、このページの下記でご紹介します。
 詳細は後で述べますが、もともとは駒を通してふたりは知り合ったわけですから、永島さん自身の作った駒や好きな作品なども合わせて掲載します。それらの駒を通して、永島さんを偲んでください。
 また、ふたりの交流が始まってから、いくつかの雑誌などにお互いがそれぞれ記事を書いたりしています。それらのさわりだけでもここに掲載しますので、興味のある方は拡大しても小さくて読みにくいと思いますが、ぜひご覧になってください。
 別項「あの駒は今・5.誌上対局での勝利の陰に」で取り上げた、私の駒友でもある三上勉さんも、私と同じく永島さんと親交が深かったので、そのことにもふれます。三上さんは、そこにも書きましたように銘駒収集家ですが、永島さんと知り合ってからは永島作品(漫画や絵)の収集家でもありました。三上さんが古本屋から探し出してきた雑誌などに、永島さんによくサインをしていただいたのが、今でも私の目に浮かびます。
 永島さんは漫画界では著名な方でしたから、多くの方々は「先生」と呼ぶことが多かったようです。また、永島さんの親しい旧友は、別称の「ダンサン」(詳細は下記に)と呼んでいたみたいです。しかし私は、ほとんどそのどちらも使ったことがありません。最初にお目にかかって呼んだ「永島さん」のままで、知り合ってからの15年以上ずっと通してきました。
 これは推測にしかすぎませんが、漫画を通しての仕事やファンで知り合ったわけでもなく、駒を通しての交流が始まりでしたから、同じ駒好き仲間の素朴な「永島さん」という呼称が、おそらく永島さんにとっては心地よかったのでしょう。
 駒作りという趣味に魅かれた者同士、気も合い肩肘をはらないつきあいが最後まで続きました。
 楽しく素敵な時間を共にできたことを、心から感謝しています。
 ありがとう、永島さん!



雑誌の記事がとりもった出会い

それぞれの作品を手に、「将棋駒研究会」展示会(2003年11月)にて。

 ――永島さんが将棋に夢中になったのは、1970年ころにある若者にこっぴどく負かされたのがきかっけだったという。その若者に、
 「先生、あの折りたたみ盤と、プラスチック駒捨てるといいよ、あんなの使っているから強くならないんだ」
 と言われ、後日その若者と盤駒を見に行き、そのときに購入した略字の彫り駒が、永島さんにとって銘駒との初の出合いであった――。

 そのあたりのことをはじめとして、私との出会いや駒にまつわる人々とのふれあいを書いた永島さんのエッセイ(イラストもあり)が、『週刊将棋』に連載した「駒作り 天国と地獄」(1990年8月〜1991年5月、その1〜その16までの全16回)である。下記に私との出会いを書いた「その9、その10」(中、右)を掲載したので、拡大して読んでいただきたい。
 ちなみにこの企画は、当時の『週刊将棋』の編集長(永島漫画ファンだった)から、永島さんに執筆してもらうように私が頼まれて、永島さんにお願いし実現したものである。

『週刊将棋』の記事(画像クリックで拡大)
1986年に掲載された当時は、盛り上げ駒の制作に悩んでいた。
永島さんの駒に対する情熱が、私との出会いを生んだ。
「駒好きの奇変人」と、永島さんは独特の表現をする。

漫画家はゴクリと生唾を飲む 

 その出会いを要約すると――。
 1980年代に入ってから、もともと「モノ作り」が好きだった永島さんは将棋を指すだけでなく、道具である駒そのものにも興味がわくようになっていった。そこで天童にまで出かけて、駒木地や駒を手に入れたり、または駒作りの会に入ろうとしたり、駒作りそのものに魅かれていくのである。
 入ろうとした「ある駒作りの会」は休止状態であったので、そのときに送付されてきた会報の中に、『週刊将棋』(カメラマン・炬口勝弘氏執筆)に掲載された私(酔棋)の記事(上写真左)を見つけ、その後、駒作りをじかに教わりたくて私を捜していたのである。
 それから半年ほどして、漫画家の集まりである「絵本の会」の打ち上げの流れで行った東京・新宿のある飲み屋でのことだ。そこのマスターは、少し漫画も描いていた関係で、永島さんもたまに顔を出すことがあった。
 永島さんが何気なく駒作りの話をしたら、マスターが無造作に、「そういえば、この前将棋の駒を作っている人が来ましたよ」と言った。ゴクリと漫画家は生唾を飲む。「そ、その人もしかして、40年配のちょっとこぶとりの」。漫画家は、思わず「増山さんだ!!」と叫んでいた。
 永島さんの言うとおり、たしかに私はこぶとりですよ(笑い)。当時、そこの飲み屋は、将棋を指せることもあり、私もたまにだが将棋関係者とともに、自作駒持参で行くことがあったのである。
 とはいえマスターも私の連絡先がわからなくて、その店によく行く私の友人から私の電話番号を聞いて、永島さんに伝えたのが始まりだった。

駒の後ろに作者が見える

 1990年1月、「阿佐ヶ谷の永島ですが、そちらにうかがっていいですか」と独特の柔らかい声で、永島さんは私に電話をしてきた。そのとき私は、高名な漫画家の永島さんであることは知る由もなく、駒のファンのひとりにしか思ってはいなかった。
 駅まで迎えに行くと、どこか見たことのあるお顔だったので、お尋ねして初めて漫画家の永島慎二さんであることがわかったのだ。それほど漫画に夢中になっていたわけではないが、当然なことに私も貸本屋世代でもあったことから、永島さんの代表作の『漫画家残酷物語』や『フーテン』はだいたい読んでいたのである。
 下写真に掲げたように、その後いただいた永島さんの漫画作品には、駒の師弟を意味するものなのか、私にとってはちょっと恥ずかしいが、「師」と書かれているのである。

数多く出版された永島さんの漫画作品たち。 恵存の書籍には「師」と書かれ、自ら作った遊印が押してある。

 「将棋に関するもの以外、何一つ置いてない。自分の仕事場はここに比べるとゴミ箱のようだ」と漫画家はひそかに思った――と永島さんが表現した私のマンションにおいでいただき、駒談議で楽しいひと時を過ごし、帰りには彫り駒を2作譲った。
 以来、駒の師匠が私で、年が一回り上の弟子が永島さんという、実に奇妙な師弟関係が自然と結ばれたのだ。駒のうえでは私が先生にはちがいはないが、人生や芸術をはじめとする「モノ作り」などにおいては、永島さんの言動や考えに教わることばかりであった。
 「駒の後ろに作者が見える」(詳細は後出)
 永島さんが、よく私に言っていたことだ。それに影響を受けてなのか、いつのまにやら私もそのような駒作りを、ひとつの目標にするようになっていたのである。

■「モノ作り」への枯渇感

永島さんに使われなくなり、少し寂しげな机と椅子。

 本職である紙や絵の材料などはもちろんのこと、あらゆる「モノ作り」にかかわる材料が手元になくなることを、永島さんは極端に嫌っていた。作品への枯渇感に通じるのだろうか、いざとりかかろうとするときに材料がないのがいやだったのかもしれない。それは駒作りをはじめとする趣味においても同じようで、駒木地などは字母紙を貼ったままで作られずにかなりの数が残されていた。
 永島さんは実に多趣味な方で、「モノ作り」と「収集」の両方を併せ持っていた。ちなみに永島さんの趣味の変遷を少したどってみると――パイプ製作、ヘラ鮒釣り、古銭収集、ナイフ収集、鉄道模型、錦鯉、駒作り、紙飛行機製作、小魚の飼育など、多岐にわたっている。それらは作るだけでなく、作品や材料などが自然と集まってしまうことになる。

1998年製作のサイン入り紙飛行機。

 紙飛行機に凝っていたときは、作ったその数は半端ではなかった。当時、寝ていた永島さんのベッドの上には、紙飛行機が少なくとも50機以上が吊るされていただろう。それらの飛行機を、実際に広場で飛ばし、見えなくなるまで飛ばす「視界ゼロ」を達成するのが、永島さんの夢でもあった。
 漫画をはじめとする、版画、水彩画、油絵は仕事であるから、もちろん趣味とはいえないが、永島さんが「モノ作り」や「収集」にこだわってきたことがうかがえてくる。
 「あなたいくらパイプがあっても、吸うお口は一つで残念ですね」
 パイプに凝っていたときの奥様のひと言だ。
 「駒が何組もあっても、指すときに使うのは一組ですよね」
 駒を作りはじめたときに奥様は言ったが、まさにそのとおりである。
 「手持ちの材料が少なくなってくると、何となく不安になるんです」
 永島さんはよく私に言っていたし、使うには十分すぎるくらいあってもまた作ってしまう。
 おそらくそういう飢餓感こそ、永島さんの「モノ作り」への情熱の源泉だったことが、永島さんが亡くなってしまった現在、私にはひしひしと感じられてくるのである。

永島さんが最後まで使っていたダンヒルのパイプ。 収集した一部のパイプやナイフ。永島さん手作りのパイプも。


定例化した「永島定跡」

永島さんとよく話し込んだ喫茶店で、三上さん(左)と私。

 初めて私が永島さんに会ってから、駒に関する私を取り巻く人々に次々と引き合わせして、じきに私が所属している「将棋駒研究会」にお連れすることになる。永島さんにとって一挙に駒作りが広がっていくとともに、永島さんが称する多くの「奇変人」にめぐり合うことになっていくのである。
 3か月ごとに行われるその例会に、永島さんの住む阿佐ヶ谷まで私が車で迎えに行って参加するのが、永島さんにとってひとつの楽しみであり、私にとっても永島さんから漫画や芸術の話をうかがうまたとないいい機会となったのだ。そのうちに自然と、例会を夕方に引き揚げて、送りがてら阿佐ヶ谷でふたりで食事をし、遅くまで喫茶店で話し込むようになっていく。
 「増山さん、今日も永島定跡でいきましょう!」と、永島さんは一連のこの行動を「永島定跡」と称していた。やがて途中から前出の三上さんも参加し、「永島定跡」は三上さんが古本屋で買って持ち込む、永島さんが描いた漫画単行本や雑誌などのサイン会(?)も、それに含まれるようになった。ちなみに永島さんは部類の「麺食い」、蕎麦やラーメンが大好きで、同じくラーメンマニアの三上さんが加わり、よく3人で食べに行ったものだ。
 やがて永島さんが持病をこじらせ、腎臓の透析を受けるようになる2000年くらいで、「永島定跡」は残念なことに休止となるのである。
 永島さんはそのころに阿佐ヶ谷から西荻窪に転居され、その後はお見舞いもかねて私と三上さんが新居にたまに訪れるようになる。

阿佐ヶ谷にあった旧永島邸の前に立つ永島さん。 娘さんが製作した、旧永島家のリビングのハウスドール。

 永島さんは創作活動に疲れると、阿佐ヶ谷近辺をよく散歩されたという。漫画をはじめ数々の作品を生んだ旧永島邸は、その独特の作り(平屋で庭には池などがあった)や雰囲気からも、かなり通った私にとっても実に思い出が深い。
 永島さんが立っている左上写真がその外観の一部で、さらにその右奥が家族が過ごすリビングであった。右上写真はそのリビング(中央はコタツで永島さんが座っていた)を、永島さんの娘さんが作ったハウスドール(幅約30センチ)である。ただし、永島家にすみついたノラ猫のトラ(本物のトラも1年前に亡くなった)がいないことだけは、ちょっと残念であるが、永島さんもこの模型をご覧になって喜んでいたという。


 

■永島さんが魅かれた木村駒

 別項「永島慎二駒語録」でも掲載したように、「いい駒は傷のように彫ってある」とご自身がその味わいを表現していた木村駒(木村文俊作)に、永島さんは私と知り合う前から何となく魅入られて、盤駒店で購入し所蔵していた。その木村文俊は、別項「名工の轍・枯淡の味わい 木村文俊」で書いたように木村義雄十四世名人の実弟である。
 「かつて名人の弟の作った駒として、木村駒が世間にもてはやされたときよりも、その後の晩年の素朴な彫り駒がいい」と永島さんはよく言っていた。特有の駒形(やや縦長で厚め)に茶褐色の漆の風合いが、枯れた味を醸し出しそこに魅かれるのだという。
 永島さんが魅かれた下記の木村駒(3作)を掲載しておくので、写真でご覧なって、このような魅力が駒にはあることも知っていただきたい。これらの作品は、いずれも素朴な島黄楊の柾目や板目である。華美になりすぎないその材質も、永島さんは気に入っていたのかもしれない。

枯淡の味わいを醸す――木村駒

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清安書彫り駒

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錦旗彫り駒

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金龍書彫り駒

■永島・酔棋(増山)――関連雑誌記事

『将棋世界』1992年7月号
(画像クリックで拡大)
題字の「走り取る味の日々」は永島さんの自筆。全7ページの掲載だった。

 前出の『週刊将棋』以外にも、他の将棋雑誌で私が永島さんのことを書いたものや、永島さんが私のために書いて寄せてくれた掲載記事があるので、少しそれを紹介する。
 『将棋世界』の「第19回ヒューマンルポルタージュ・永島慎二氏 走り取る味の日々」(左写真参照・2ページのみ掲載)――永島さんへのインタビューをもとに私が書いた記事で、永島さんのモノづくりの情熱や駒作りに対する考えなどがわかるので、以下に抜粋して少し紹介してみる。

 「趣味という言葉を分解すると、『走り取る味』となるんです」そう言った永島さんの言葉を、この記事の題字にしていただいた。
 その言葉は――誰でもがヒマなときに趣味を堪能できるのではなく、仕事が少し忙しいくらいのほうが、かえって趣味に興じることができることを意味する――永島さんの持論だ。
 「芸術では、技術的にうまいとか上手とかはそうたいしたことではないんですね。その上に【よい】という世界があるんです。駒作りでいえば、彫り方がうまくきれいで、いくら盛り上げが上手でも、ダメなんですね。作った人、つまり作者がその駒の後ろに見えてこなければ【よい】という世界に近づけないんですね」
 私の駒作りの指針のひとつとなる「駒の後ろに作者が見える」を、永島さんが私にプレゼントしてくれたわけだ。
 「よーく見ていると、血が流れてくる彫りというのがあるんです。まっさらな木地に傷をつける(彫っていく)。つまりまっさらな白い紙に傷をつけていく(描いていく)、漫画の世界にも似た感じがするんですね」
 永島さんが好きな木村駒を評しながら、自らの漫画観を表現する。
 「いい駒には、その人が負った人生の傷が具体的に現れてくるのではないでしょうか。駒はあくまでも道具です。道具でありながらも、勝ち負けに介在するわけですから、それ以上の何かがあるんです。使われているときは自己主張するわけではない。だが、そんな駒を一度箱(観賞用の飾り箱)に納めてあらためて眺めてみると、ジワっと何かが出てくる、そんな気がするんですね」
 また、彫り駒について、独自の文化論で次のように語っている。
 「日本の文化は、浮世絵の版画を例として、木を彫って削るわけですから【マイナスの文化】なんですね。逆に西洋の文化は、油絵のように絵の具を重ねて(足して)いくわけですから【プラスの文化】なんですね。こう考えますと、彫り駒は木を削るからマイナス、盛り上げは漆を盛る(足す)から、プラスということになります。僕はどうしてもマイナスのほうに力強さを感じるんです」
 彫り駒を好きな理由をそのように話していたが、その永島さんはプラスの油絵もかなり描いていたのが、ちょっと興味深いところだ。
 最後のほうで、
 「何年かかるかわからないが、駒作りというただごとならない世界を一冊の本にまとめるのが願いです。多くの人々にこの世界を知ってほしいからです」

 永島さんのその願いは、それから数年後に『駒のささやき』(別項「BOOK INFOMATION」)となって結実していく――。

『NHK将棋講座』1997年3月号
(画像クリックで拡大)
左ページ下段が、永島さんの寄せ書き。

 別項「『NHK将棋講座』駒シリーズ」でご存じのように、それは7年間にわたって私が書いた駒に関する連載記事だ。
 そのシリーズ4年目の「駒景色」の最終回(右写真参照)となった私自身の作品紹介のとき、永島さんがそれを祝ってコメントを寄せていただいたのである。
 「目の前にいた現代の職人」という見出しの文章で、私との憧れの出会いや、現代の職人たちの作った『駒のささやき』の出版を、「あっはっはっは! 喜びの笑いである」とおもしろそうに締めている。
 駒そのものや多くの駒作りの人々との出会いを、叙情詩漂う永島さんの漫画作品と重ね合わせていたのか、今となっては知る由もないが、そんな感じを私は抱いていた。


走馬灯のように駆けめぐる

 先にも少しふれた、永島さんが願っていた「駒作りによる、駒作りのための、駒作りの本」――『駒のささやき』が、1996年に永島さんを含めた駒作り仲間で刊行された。
 「将棋駒研究会」の会長・北田義之さんをはじめとした、その会の7人の有志で結成された「駒研出版会」からである。書籍編集業を営んでいた私が、職業上からも編集長を務め、永島さんには顧問として、編集スタッフみなさんのイラストなどを描いていただいた。
 1997年には、その『駒のささやき』が「第9回将棋ペンンクラブ大賞特別賞」を受賞し、授賞式には「駒研出版会」の面々で出席した。会長や私の受賞の挨拶のほかに、永島さんが受賞の喜びを、漫画家らしい独特の視点でユーモアを込めて語られたときには、会場が爆笑に包まれた。
 「駒研出版会」や「将棋駒研究会」の仲間たちと、永島さんも何回か旅行をご一緒した。ゲストとして三上さんも行った西伊豆の温泉旅行のときには、三人で岩魚をかぶりついたことや、同部屋だった私のいびきがすごくても、永島さんだけは気遣って「大丈夫でしたよ」と、翌朝私に言ってくれたこと……。
 また、数々の「将棋駒研究会」の展示即売会や、私の「第1回個展 棋は鼎談なり」に永島さんが来ていただいたときの雑誌の取材、先に書いた「永島定跡」でのかえがたい時間、実にいろいろな思い出が走馬灯のように今でも私の頭の中を駆けめぐってくる。

永島作・駒ミニライブラリー


別カット

紫電島黄楊板目彫り駒
永島作(14作

 漆の具合が少し変わっていて、おもしろい雰囲気を醸している。「紫電」は、たぶんアマチュアの方の創作書体。永島さんは古来伝わる書体も好きであったが、このようなオリジナリティーあふれるものをことに好んでいた。
 制作番号を入れたのは、私の方法をまねたものだと永島さんはかつて言っていたが、番号が入った作品自体も少ないし、どうやら番号自体もあいまいになっていたらしい(笑い)。

●永島駒の趣を偲ぶ

 実際に永島さんが駒を作られた期間は、その前の独自でいたずらとして作ったことを別とすれば、私と知り合ってからの最初の10年ほどだっただろうか。その間、かなりの数は完成したと思われるが、後で紹介するように作りかけのものも数多く残されていた。
 それらの多くは、漫画家をはじめとする永島さんの友人や知人に差し上げたものが大半であるが、少しは展示即売会などで人にお譲りした駒もあった。永島ファンでもあり、将棋好きな俳優の森本レオさんなども、永島さんの駒を買いに展示即売会に訪れたことがある。
 また、私や他の駒作り仲間に、永島さんは時たま自作の駒の仕上げなどを頼むこともあった。お体のこともあり、永島さんが思うように作れなくなったこともひとつの要因であったのかもしれない。
 ここにいくつかの駒を掲載するので、永島さんを偲び、永島駒の趣を一緒に味わっていただきたい。

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奥野錦旗島黄楊柾目彫り駒

 私もよく作るし、永島さんにとっても好きな書体であった。

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三田玉枝島黄楊根杢彫り駒

 このような篆書の書体は、永島さんはとくにお好みだった。

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玉舟書島黄楊根杢彫り駒

 「玉舟」は木村しか作っていない書体だから、作ったものか。

 写真でおわかりのように、永島さんは味わいのある自筆の駒銘を使っていた。もちろん彫り駒しか作っていないので、駒銘も原則的にはすべて彫りであった。
 下左写真は、永島さんの完全なオリジナル書(慎二書)で、駒銘も「ナガシマ作」と一風変わってカタカナだ。表が黒、裏が赤で、どことなく懐かしささえ感じさえ、漫画家らしく遊び心にあふれた駒だ。
 下右写真の「正明書」は、永島さんが彫っておいて、その後私が頼まれて盛り上げ駒にしたふたりの合作である。そこで、駒銘も盛り上げにしたというわけである。

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慎二書島黄楊柾目彫り駒

 裏は一文字で、とくに「馬(龍馬)」は篆書風でおもしろい味わいだ。この文字を、私も「左馬」に反転して、根付などを作ったことも。

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正明書島黄楊柾目盛り上げ駒

 この書体もアマチュアの創作だ。このようなやわらかい書体は、永島さんにとっては珍しいのではないだろうか。


●駒への思いがあふれてくる

 下の写真(上段)は、永島さんが使っていた駒作りの道具や、私のために作っていただいた遊印である。これらの印は、今でも平箱に押したりして、よく使っている。永島さんの味わいのある字は、遊び心が表現され、まさに遊印というのにぴったりだ。
 このような篆刻は、永島さんが自らの絵などに使うために始めたものだろうが、それ自体がひとつの作品ともなっている。印を彫るための印刀やかなりの数の石も残されている。これからは永島さんの息子さんが、趣味のひとつとして引き継ぐということなので、永島さんもさぞや喜んでいるにちがいない。
 下段の写真は、字母紙が貼られて彫られるのを待っていた駒木地と、失敗したり彫られて中途となった駒々である。掲載したものは、それらのごく一部にすぎない。
 いずれにしても、永島さんの駒に対する思いがあふれてくるようだ。

駒彫り台、印刀、駒をとめるクサビなど。 私のために永島さんが作ってくれた遊印の数々。
このように字母紙が貼られた駒木地は、10組以上はあった。 彫りかけの駒や失敗した駒も含めて、永島さんの思いが宿る。

「永島定跡」休止状態に

 永島さんのご病気の関係で、「永島定跡」も休止状態になり、やむをえず永島さんご自身の駒へのエネルギーもだんだんと小さくなっていく。最後のほうでは、メダカなどをはじめとする小魚を飼育するのが、永島さんの楽しみのひとつに変わっていた。
 三上さんや私もその買い物によくつきあったが、行くたびにどうしても買ってしまうので、そのための小さな水槽が、永島さんの寝室を紙飛行機のときと同様で、占拠するようになる。ここでもモノに対するこだわりや枯渇感が、永島さんを誘ったのだろうか。
 もともと永島さんは、漫画をはじめオリジナリティーに富んだ方であるから、駒においてもそれはかなり発揮されていた。それまでもいくつか書体は創作していたが、完全な字母紙としては残していなかった。そこで、三上さんらが永島さんの駒字をあらためてお願いして、私がその書体を字母紙として完成させ、「団賛書」を作るようになったのである。

■「団賛書」が生まれるまで

 上記の経過を踏まえて、「団賛書」が完成する。その初作は、下記に紹介する駒(第212作)で、永島家転居祝いとして私が永島さんに差し上げたものである。この駒は別項「永島慎二駒語録」にすでに掲載してあるので、合わせてご覧いただきたい。後日頼まれて、永島さんの知り合いに差し上げるために、もう一作別に作っている。
 書体名となった「団賛」(ダンサン)とは、永島さんの古くからの別称で、「人々が多く集まってくる」ということを意味する。永島さんのまわりに、若き漫画家などが集まっていたから、そう呼ばれるようになったのだろうか。
 下記に示したように、永島さんの書き起こした書体を、私(酔棋)がパソコンで加工し、字母紙として仕上げたものである。
 漫画家の永島さんらしい、独特の味わいをどこまで出すことができたものかは、みなさんの判断に任せたいが、完成してお渡ししたときには永島さんにも喜んでいただけた。


団賛書中国黄楊根杢盛り上げ駒・酔棋作(第212作)

画像を拡大

●「団賛書」の字母紙

 駒銘の「酔棋作」も、もちろん永島さんの字である。元となった原本は、下の写真をご覧いただきたい。
 私が作成した「団賛書」の字母紙(左写真・画像クリックで拡大)は、左のものでありそれを駒木地に貼って彫るのである。このように、あらためて作成した字母紙には、なるべくそれぞれの由来や由緒を書いて残すように努めている。
 永島さんからは、他にも「永島略字」や「団賛書」の別バージョンもいただき、それらも字母紙にして残してある。
 裏字が一文字のところからも、永島さんが篆書風な略字が好きだったことがうかがえてこよう。

これらの書体以外にも、数々の書体を書き起こしていただいた。 これら2つから、それぞれ選び出しひとつの書体として完成させた。


感謝! 感謝!

 永島さんご自身があまり駒を作られなくなってからも、私の気に入った作品が完成すると、よく永島さんに見ていただいたものだ。そのときに永島さんの評価を聞くのが、ちょっと怖くもあり楽しみでもあった。しかし、残念ながら新しい作品を作っても、もう見ていただくことも、評価していただくことも、叶わなくなってしまった――。
 これまでにも書いてきたように、永島さんは私の駒作りのうえでの「心の師」でもあり、精神的支えになっていたことに間違いはない。さらに実物としても、遊印をはじめ絵や版画などもいくつかいただいている。私もそれらのお礼として、駒などを作って永島さんに差し上げたりもしたが、あらためてこれらの遺作を眺めると、いくら感謝しても感謝しきれない気持ちがいっそう強くなってくる。
 そこで、それらの残された私の手元にある永島さんの遺作を、下記にギャラリーとしてご覧いただくことにした。他にも譲っていただいた版画などもあるが、ここでは私に関するものだけにとどめておく。

■永島作品ギャラリー(酔棋画のみ)

個展のパンフレットの表紙や『駒のささやき』編集後記に使用。

 ここで紹介するのは、いずれも永島さんの描いたイラストだ。私の表情や駒に対する思いなど、永島さんがとらえ見事に表現していると感じさせるものばかりで、やや苦笑しつつも感心するしかない。
 左の「棋は鼎談なり 酔棋将棋駒展」は、もちろん永島さんの自筆。やや踊ったようなその字は、個展の喜びを表現しているようでもあり、逆に筆を持ったハトが飛んでいる酔棋の静寂な対比が、私はとても気に入っている。
 個展(1991年)のお祝いにいただいたイラストであったことから、そのときに頒布したパンフレットの表紙に使わせていただいたり、または『駒のささやき』の編集後記にも使用した。
 下の3つのうち、いちばん左のイラストは、『駒のささやき』において、「アマチュア駒師のひとりごと」と「編集スタッフ」で使った。
 たしかに私らしいが、他に比べるといまひとつ好きになれないのは、どうしてなのかと……。永島さんの慧眼が、私の負の部分を描き出していたからかもしれない。そう思うと、何となくこのイラストがいとおしくなってくるから、実に不思議だ。
 真ん中の駒を彫っているところは、このHPでも多用し、名刺にも入れているから、みなさんにはおなじみであろう。原本はこのように色がついていないが、実際には色づけ加工して使っている。そのほのぼのしているところから、私にとって最も愛着がある作品である。
 最後の赤が主体のピエロは、永島さんのピエロの絵の個展のときに、あとで注文して描いていただいた絵である。永島さんが言うには、「赤は縁起がいい」とのことで、自宅の玄関に飾ってある。その後の成り行きを考えると、私にとってはいろいろな意味で、縁起がいい絵となっているようだ。以前から、永島さんの描くピエロは好きで、その他にも版画や別な絵もいただいている。

『駒のささやき』に使用した私のイラスト。
このHPには、加工して使っている。
永島さんの得意なピエロで描いてもらう。

子供じみた負けず嫌い

 年が逆である奇妙な師弟関係が結ばれてから、永島さんが他界するまで、およそ15年間の親交が続いた。最初のうちは駒に関することが主体ではあったが、永島さんの絵の個展に私の友人・平賀浩さんと一緒に訪れたり、私の会社の忘年会に永島さんが参加したりと、その交流はだんだんと駒以外にも広がりをもつようになっていった。
 永島家に年始で、先の三上さんや平賀さんと一緒にうかがったときには、奥様にお手製のご馳走で歓待していただいたり、永島さんが私の家においでいただいたときには、私のおふくろが作った甘酒や漬け物を、永島さんがおいしそうに食べていたことも、今や懐かしい思い出となってしまった。
 ちなみに永島さんは、将棋そのものは初段と称していたが、実際にはもう少し下ぐらいだったかもしれない。私や三上さんとは、ほんとうなら二枚落ちでもなかなか勝つのは難しいのだが、駒落ちはあまり指したがらなかった。
 そこで、私と平手で指して1回勝ったときには、「二枚落ちでは勝てなくても、僕は平手で増山さんに勝った」と鬼の首を取ったように実に喜んでいた。そのちょっと負けず嫌いで子供じみたところは、私にもかなり通じるところがあったので、とても微笑ましく思えた。ただ、残念なことに体の具合を悪くしてからは、将棋も指さなくなり、人の指している将棋を傍らで見るだけになっていた。
 当然なことに、駒作りもだんだんと彫れなくなり、字母紙を貼られた駒木地だけが、積み重ねられたままとなった。そんな状況の2004年の暮れ、私の家に三上さんが車で永島さんお連れしたとき、私の手持ちの薩摩黄楊稲妻杢の駒木地を見つけて、「それを譲ってほしい」と永島さんは言い出した。思わず私が「お作りになれるんですか? もしも永島さんが欲しいのなら差し上げますよ」と言うと、「作れなくとも、いい駒木地があると安心するんですよ」とやや寂しげな笑みを浮かべた。
 私と三上さんに、永島さんがフグをご馳走してくれたときのことで、永島さんの「モノ作り」への枯渇感と執念がよく表れている小さなエピソードだ。
 残念なことにその稲妻杢の駒木地は、現在私の手元に戻ってきた。来年にはその駒木地で、永島さんの思い出を込めて三上さんの駒を作ることになっている。
 ※その後完成「作品ライブラリー・源兵衛清安(第275作)」参照。

◆永島慎二フォトメモリー

永島邸にノートパソコンを持っていき、HPを見せているところ。

 永島さんとご一緒した楽しかった日々のほんのひと時を、フォトメモリーとして掲載しておく。
 それらの写真を見ていただくと、永島さんがいろいろな帽子をかぶっているのがわかると思う。身近な人には知られていたが、永島さんはかなりのおしゃれだった。それは帽子をはじめ服装から、時計などの小物にいたるまで、ひとつのこだわりをもっていた。
 私や三上さんが永島邸にうかがうと、奥様が必ずといっていいほど、スナップ写真を撮っていただいたので、それらの写真も使わせていただいた。
 私と三上さんが永島さんに会って食事をするときは、永島さんの好物である蕎麦やラーメン、または鰻が定番であった。お元気なころは、意外と健啖なのに驚かされたものだ。
 どこに行っても、別称の「団賛」のとおり、永島さんのまわりには自然と人々が集まって、その独特の語りに引き込まれるのが常だった。
 残念なことにそれはもう叶わないが、向こうの世界でも多くの人々に囲まれて、ダンサンらしく「モノづくり」をはじめとする趣味三昧で過ごしていただきたい!

漫画にサインをしていただいているのを、ビデオに収める。 永島さんが過ごしたソファで、三人仲よく写真に納まる。
ペンクラブ大賞の栄えある授賞式に、駒研の仲間たちと。 授賞式の帰りがてらの喫茶店で、永島講話をひとしきり。
「駒出版会」の西伊豆旅行とき、ふたりでくつろぎながら。 ゲストとして三上さんが参加した西伊豆旅行(1997年)で。
永島さんと一緒に、駒仲間たちと手打ち蕎麦を食べに行く。 「駒出版会」の箱根旅行(2000年)、彫刻の森美術館前にて。
私が先行し、上からのアングルでみなさんパチリ。 自ら写真はあまり撮らなかったが、カメラにはこだわりも。

2005年夏、四十九日がすんだ鎌倉の瑞泉寺に、三上、平賀、増山の3人でお墓参りに行った。ものすごい暑さの中であったが、木陰に入ると一陣の涼やかな風が吹いてきた。永島さんが喜んでくれたのだろうか。

 「永閑院愼高美久居士」

 永島さんの戒名で、「高美久」とは、漫画家らしく「コミック」のことだという。

永島さん! ご一緒できて楽しかったですよ。

合掌

 

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駒の詩