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5.誌上対局での勝利の陰に―銘駒収集家は棋聖を苦しめた


別カット


巻菱湖書島黄楊虎斑盛り上げ駒
酔棋作
(第145作)
三上 勉氏所蔵

元来は身代わりの駒だった!   

 この「巻菱湖」(第145作)は、1994年に制作したもの。この駒木地を購入してから一気に作り、完成してじきに将棋を指すかたわら、銘駒収集家でもある三上勉氏(公務員)に譲った駒である。
 三上氏と私(酔棋)が知り合って以来(最下段)、長いこと三上氏は宮松影水作の駒を探していて、やっとその宮松作の「巻菱湖」を手に入れることができた時期でもあった。その駒は、別項「名工の轍・宮松影水」で掲載している「巻菱湖」である。その駒は、実際にプロの「名人戦」などで、2度使用されている。
 ふだん使いの駒としては、その駒でいつも指すわけにもいかないので、その身代わりとして、三上氏がよく指して使うようになったのが、私が制作した今回の「巻菱湖」だ。
 やや赤みがかったその虎斑は、歳月と三上氏の将棋への熱き思いが吹き込まれたからなのか、作者の私が出合うたびに元来は身代わりであったはずのこの駒も、いい味わいに育ってきている。
 以来、10年以上にわたり三上氏は数々のアマチュア棋戦や将棋大会などで、この駒で実戦を指しつづけた。ちなみに三上氏の棋力は全盛期には五段はあったと思われるが、現在では少しは衰えたとはいえ、「将棋駒研究会」の仲間では、屈指の強豪である。蛇足ではあるが、私との戦歴は数百番に及び、私の1勝2敗というペースだろうか。
 三上氏のおもな戦歴としては、1997年に「初代所沢竜王」に輝いている。


◆裏定跡にも果敢な攻め

佐藤康光棋聖の華麗な手さばき。 実戦を指しなれている三上氏。



将棋を指すどころではなかった 

別な方の対局のときに、大盤解説で駒を動かす三上氏。 カメラマンの弦巻氏(奥)と観戦記者の湯川氏(手前)。

 佐藤康光棋聖対三上勉戦(飛車落ち対局)が実現したのは、下記の写真(掲載記事)をご覧いただければおわかりのように、小学館の雑誌『週刊ポスト』の「将棋三番勝負」の企画が「日本将棋連盟朝霞支部」に持ち込まれたのが始まりであった。他の支部のお二方とともに、三上氏も対局することになったのである。
 2005年4月3日、誌上対局の3番目に三上氏と佐藤棋聖の対局は組まれた。その日に会場となる公民館まで、三上氏が自分の盤駒を運んで用意した。その対局に、私の作った「巻菱湖」が使われることもあり、そこで私が応援に駆けつけたというわけである。7寸の榧盤は天地柾で、名人戦にでも使われても不思議はないほどの名盤である。
 三上氏にとっての将棋は、指すことと銘駒収集の二本柱でこれまでも成り立ってきた。それが結実して、このハレの日を迎えたことになる。しかし現実は、三上氏にとってもっと大変な状況であった――。
 というのは、三上氏の母親が脳梗塞で倒れてから10年近く、体は少し不自由でも健在であったのだが、この対局の少し前から余病を併発し、危篤状態になっていたのである。三上氏はたびたび病院にも詰めていたこともあり、とても将棋を指すどころではなかった。ところがこの日を迎える少し前くらいから、母親は小康状態を保ち、この対局が実現したのである。

詰むや詰まざるや  

 三上氏が出場した勝負の展開の詳細は、下記の掲載記事(前半戦、後半戦)を拡大してぜひご覧いただきたい。なお、『週刊ポスト』の観戦記者は女流アマで知られる湯川恵子氏と、カメラマンは弦巻勝氏。

棋譜は▼棋譜ページへ

※棋譜ページ(▼日付順)を開いて、「三上五段VS佐藤棋聖」戦を選択してください。


『週刊ポスト』掲載記事
※画像をクリックで拡大します
2005年6月10日号
2005年6月17日号


 対局に少しふれると、上手の佐藤棋聖(それまでの2番は上手の勝ち)が下手の三上氏を強豪とみて、飛車落ちの裏定跡を採用という変化球を投げてきた。しかし、下手は駒損をいとわずに果敢な攻めに出て、上手玉を追い詰めた。
 その後、上手もいろいろと策を弄し、下手が上手玉に縛りをかけたその瞬間、下手玉は「詰むや詰まざるや」の展開に! 三上氏が読みきっていたのか、はたまた病床に就く母親の応援なのか、からくも詰まずに上手が投了。下手・三上氏の勝局に終わる。
 対局室にいたみなさんと、別室で大盤解説を見ていたギャラリーを含めて、上手投了の一瞬に垣間見せた三上氏の苦衷の表情に気づくものは、母親の状況を前から知っていた私以外にはいなかったにちがいない。
 この対局を終えて1か月後くらいに、三上氏の母親は逝去なされた。三上氏がこれまで作ってきた数多くの棋譜の中でも、「神がかり的な強さ」だったと、今でも三上氏と私のふたりで話すことがある。
 「きっとお母さんが勝たしてくれたんだよ」と私が言うと、三上氏はちょっとはにかんだような複雑な笑顔で、「そうかな」と答えた。

三上玉(右)はからくも詰まず、上手の投了の局面。 朝霞支部のみなさんに囲まれて、感想戦が始まった。

お母さんが勝たせてくれた

 上の写真をご覧いただけばおわかりのように、終局後の感想戦は、朝霞支部のみなさんに囲まれて、まるでプロのタイトル戦のような雰囲気であった。三上氏の晴れ姿を、陰ながら母親が見守ってくれていたのかもしれない。
  今回の対局記念として、当日に佐藤棋聖に三上氏が揮毫していただいたのが、下写真にも掲載した扇子である。その達筆な書は、「道はどこにでもある」ということを意味しているという。これまでに三上氏が突き進んできた「将棋と駒の道」は、どこにでもあるのかもしれないが、まだまだ長く続いているように思えた。
 対局終了後、佐藤棋聖を囲んで朝霞支部のみなさんと打ち上げの宴会となり、私も参加させていただいた。その席で佐藤棋聖に「巻菱湖」の指し心地を私がうかがったら、「とても指しやすかった」と言っていただき、ホッと私は胸をなでおろした。
 宴席で、勝利の美酒に素直に酔うわけにもいかない三上氏は、やや寂しげな笑顔をつくった。
 「やはりお母さんが勝たしてくれたのかも」と、思わず心の中で私はつぶやいていた――。

壁には歓迎の大きな横断幕が。 上手投了、勝利の笑顔の陰に。
終局後、おふたりでパチリ。 佐藤棋聖揮毫の扇子。

駒を通してのふれあい

2000年開催の永島氏の絵画展にて。

 三上氏と私とのつきあいは、最初に出会ったときからすると、かれこれ15年以上になろうか。三上氏所蔵の「木村名人書」が、ふたりの縁の始まりだが、その詳細は、別項「『駒の詩』第1回オフ会実況」の三上氏の紹介を、ぜひご覧いただきたい。
 その後、私が誘い「将棋駒研究会」にも三上氏は参加するようになり、会長・北田義之氏(左写真中)、漫画家の永島慎二氏(写真左)をはじめ、駒作り仲間との交流が始まった。
 なかでも、近ごろ亡くなられた永島氏とは、その氏の作品である漫画や人柄にふれて、私も含めた3人で駒以外でもほのぼのとした関係が深まった。そのあたりは、別項「永島慎二レクイエム」に譲ることにする。
三上氏の元来の銘駒収集癖がそうさせたのか、今度は永島氏の漫画収集にも夢中になっていく。古本屋を歩き回り、珍しい永島氏の本を見つけてきては、永島氏にサインをせがんでいた姿は、惜しむらくはもう目にすることができなくなってしまった。私自身も、一抹の寂しさを覚えるこのごろである。
別項「酔棋制作駒『第2回個展』メモリアル」や、「第2回オフ会実況」をご覧いただければおわかりのように、三上氏には運営や設営をはじめいつもいろいろと手伝っていただいている。私が駒を作っていくうえで、永島氏が「心の師」なら、三上氏は大切な「駒友」の一人といえよう。

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