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書体への誘い 6 長録<ちょうろく>



別カット

長録書黄楊虎杢盛り上げ駒
酔棋作(第220作)
森野節男氏所蔵

「石心」と「黄楊心」

 関西棋院、つまり囲碁の棋士である森野節男九段に頼まれて、2002年に作ったのがこの駒である。これまで将棋の棋士のためには、仕事でご縁があった森内俊之前名人をはじめ何人かの駒は作ったことはあるが、もちろん囲碁の棋士では森野九段が初めてだ。
 そもそも森野九段とは、「あの駒は今」でも紹介している新宿の「一歩」で知り合った。1998年に「清安」(第183作)の書き駒を頼まれて作ったことがあるから、この「長録」は森野九段にとって2作目ということになる。
 記念に根付を作って差し上げることになり、そこに入れる言葉が「石心」(上記写真参照)という、囲碁の棋士らしいものになった。黄楊の駒木地に「石の心」とは、一見かけ離れているようだが、囲碁将棋のどちらも日本の武士道にも通じる盤上遊戯にはちがいはないから、これといった違和感は感じさせない。この根付は表が「石心」で、裏がお名前の「節男」と入れた。ちなみに「石心」は、緑色の色粉を木地呂漆と混ぜて深緑色に作った。
 この根付を作っているときに、「黄楊心」という言葉が私の脳裏に浮かんだ。私が制作する駒に、駒木地となる「黄楊そのものの思い」、つまり「黄楊心」を表現できているのだろうか? 第220作以降、駒制作のうえで一つの指針を与えられたような気がした。


東京・池之端の薬店「守田寶丹」の
9代目(11代目)店主・守田長禄

店内に飾ってある自筆の「寶丹」の額。
現在営業している薬店「守田寶丹」の表看板。

縁起物として喜ばれた

守田寶丹(長禄)
(1841〜1912年)

 東京・上野池之端の薬店「守田寶丹」(もりたほうたん)の9代目(11代目)主人・守田治兵衛(右写真)が、したためた独自の書がこの駒書体のもととなっている。この書は、商家の看板に珍重されるなど、人々から縁起物とたたえられ喜ばれたともいう。その味わいは、上の写真の残された額や看板をご覧いただければ、十分にわかっていただけよう。また、守田治兵衛の寶丹流と称されたその書の号が、「長禄」なのである。
 9代目の守田治兵衛が研究、改良した「寶丹」は、コレラの予防薬として重宝され、明治になって官許第1号の公認薬となっている。その治兵衛は、いったん隠居し10代目に家督を譲るが、10代が早世したため11代目ともなった。現在の「守田寶丹」は13代目が受け継いでいる。


■「長録」の由来

部分拡大

薬袋(裏)の文字の一部分を拡大してある。実際の駒や字母紙と比べていただきたい。

 左の写真は、守田寶丹のかつての薬袋である。その独自の書が、そこかしこに垣間見えると思い掲載した。実際の駒の書体と比べてみると、おもしろいかもしれない。
 この書体も、やはり豊島龍山が駒銘として残している。年代から類推すると、守田治兵衛が亡くなった当時、龍山はすでに駒を作っていた。駒師の遊び心として、当時人気を博していた書に目をとめ、駒にしたのではないかと推測できるのである。

「長録」と「長禄」

 さて、駒の書体としてだが、巷には「長禄」と「長録」の2つが流布している。この書の元とされる守田治兵衛の号は「長禄」だから、「長禄」の「示偏」が正しいという説。もう一説は、残っている豊島龍山の字母帖には、「守田長録」(下字母紙参照)とあるので、書の号はともかくとして「金偏」の「長録」が正しいというものである。
 どちらが正しいかは、私としても判断はつきにくいし、また無理して固定する必要もないとも考えている。というのは、古い文献などでは音が同じだと意味が同じように使っているものもまれにあるからだ。たとえば、「金」の代わりに同じ音の「今」をあて、「と金」のくずし字にしていることなども、その例と思える。
 実際に私も初期は「長録」で作り、一時期は「長禄」にしていたが、ここ10年くらいは「長録」に決めている。

豊島龍山の残された字母紙には、はっきりと「守田長録」(右下隅)と「示偏」(長禄)ではなく「金偏」(長録)で書かれている。

 

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