天彦書島黄楊虎斑書き駒
増山酔棋作(第460作)
松枝正義氏所蔵
「玉将・歩兵」のアップ。 |
私が標榜している「使われてこそ名駒」を佐藤名人に揮毫してもらった色紙。 |
私(酔棋)が透析生活(週3日)になったのが2017年10月のことだった。その当初は、従来より続けていた書籍編集の仕事も、何とかやりくりしながらやっていた。だがじきにそれもだんだんと難しくなり、半年くらいで本職としていた仕事はすべてやめた。ただし、私のもう一つのライフワークの駒作りは、どなたかに依頼される間は続けることにした。とはいえ、透析の左腕に作ったシャントのため、彫る作業がしにくくなってきた。そこで、主に「酔棋流書き駒」(▼「書き駒教室」別項参照)を主軸とすることになっていった。
ちょうどそのような時期に、「日本将棋連盟」のかねてからの私の知り合いの職員が、佐藤天彦名人(当時)から「影水作の駒について知りたいので、駒に詳しい人を紹介してほしい」と相談され、その職員から私に連絡があった。いずれ適切な時期に、拙宅に佐藤名人を連れてくるとのことだった。
2018年第76期名人戦(佐藤天彦名人VS羽生善治竜王)の始まる時期だった。そこで、私は名人戦が終わってひと段落したころかなっと踏んでいた。ところが第5局が終わったら時間がとれるので、それに合わせて来たいとのことで、急遽拙宅への訪問が決まった。
せっかく佐藤名人がいらっしゃるなら、宮松影水作(▼「名工への誘い・宮松影水」別項参照)の駒をいくつか用意しておこうと思い、その当日に私の駒友・松枝正義氏(駒の収集家でもあり影水作もかなり所蔵)も影水作をいくつか持参で来てもらった。佐藤名人は、ネットTVで拝見していたが、イメージどおりの穏やかな雰囲気で、数作の影水作の駒をしばしじっと眺めたりやがて写真に撮ったりと、まさに駒マニアの仕草で、同席したみなさんも一緒に駒談議となって、自然と打ち解けていった。お話によると、佐藤名人がまだ奨励会に入る前(小学校高学年)に、『駒のささやき』(▼別項参照)を親に買ってもらって読んでいたという。最初はプロ棋士だから、単に使う駒にも興味がある程度なのかと思っていたが、そんな幼少期から駒が好きだったと知って、私も思わず駒の魅力についていろいろと語ってしまった。また、私が編集長を務めた『駒のささやき』を読んでくれていたことに、嬉しくもあり感激もした。
それからは駒が取り持つ縁で、駒好きのプロ棋士と駒ジャーナリストと勝手に自負する駒師、駒の収集家、それらの駒友による交流が始まった。佐藤名人が、影水の駒をネットオークションで落札したり、別な極上の影水作の駒を手に入れたり、といった機会に私たち駒友もご一緒した。名人防衛のお祝い会をしたり、色紙(上写真参照)をいただいたり、駒にまつわる情報を教えたり、その後も交流の機会を作った。いろいろとお話を聞いていると、佐藤名人はクラシック好きで自らピアノを習ったり、絵も好きとのこと。もちろん将棋で上り詰めたわけだから勝負師でもあることは間違いないが、さらに芸術的センスも持ち合わせているようだ。先の名人戦で防衛を果たし、「その副賞で駒木地を手に入れ、自分の書体で駒を作りたい」と佐藤名人が私に相談してきたのである。もしかすると自らの書を、好きな駒で表現したかったのかもしれない。
駒木地から作っている駒師でなければ、その要望に応じることはできない。そこで私が推薦したのが、須藤久士氏(号・思眞)であった。振り返ればずいぶん時の流れが過ぎたのだが、須藤氏が駒作りに芽生えた少年期に、ある駒の会の展示会場で私と巡り合った。出会いが須藤氏というより小学生の高学年だったので、現在でも須藤君のほうがどうしてもなじみがいい。彼は高校を卒業してから、本格的にある駒師に師事し、数年修業し、東京に戻って駒木地から盛り上げ駒まで一貫制作で名を馳せていた。私とはしばらくの間途切れていた時期はあったものの、2016年ころにちょっとしたきっかけで、交流が再開した。あらためて会うと、幼かった須藤君の面影はすっかりなく立派な職人さんになっていた……。須藤氏は幼いときから駒に惹かれるくらいだから、モノづくりや書に対しても造詣が深く、佐藤名人の要望にこたえるのにふさわしいと思えた。
左・酔棋、中・佐藤、右・思眞。 | 「天彦書」が入る平箱「優美」。 | 左・松枝、中・佐藤、右・思眞。 |
天彦書島黄楊根杢盛り上げ駒・思眞造(佐藤天彦九段所蔵) |
上記のように、新しい「天彦書」を作るためのプロジェクト(大げさ?)が発足した。佐藤名人も時間がなかなかとれず、第76期名人就位式(下記写真)に私たち駒友と須藤思眞も招かれた。佐藤名人に事前に板木地を数多く(
10組くらい)見ていただいて、選んだのがこの板木地であった。駒木地は決まったものの、肝心な書体のほうは、佐藤名人が書いた駒字(ものすごい量)を持ち寄り、須藤氏と数回拙宅でじかに打ち合わせし、徐々に「天彦書」が決まっていく。ちなみに須藤氏は筆で実際に書体(駒字)を書き起こすので、その作業は大変なものであった。その後、コロナ禍となって、実際に会っての打ち合わせも難しくなり、数十回に及ぶお二人のメールのやり取りで、やっとのことで「天彦書」の書体はできあがったのだ。その後、実際の駒作りに思眞は取りかかり、2021年2月に上記の写真の駒がついに完成し、佐藤九段(2019年名人失冠)に納められた。私としては、少年期にプロ棋士をめざし名人までなった人と、同じく少年期に駒作りに目覚め名を成す駒師になった人、そのお二方のコラボレーションによってこの駒が完成し、それに私自身が少しかかわったことを光栄に感じている。少し派手と思われる行書・草書の中間くらいの駒書体には、佐藤九段の芸術的味わいも醸されている。まさに一言で表現すると、佐藤九段が揮毫する「優美」(先写真参照)こそ、この書体の魅力なのかもしれない。
コロナもやや落ち着いたその年の12月に、このプロジェクトにかかわった4人でこの駒の「お披露目会」を催した。
このようないきさつから一つの記念にもなると思い、私自身も「天彦書」を作ってみたくなった。佐藤九段と思眞にその旨を伝えて快く了解していただき、「思眞造」の上記の駒から書体を作った。駒友・松枝氏も同じ思いだったようで、松枝氏に頼まれてトップページの増山酔棋作「天彦書島黄楊虎斑書き駒」(第460作)を作ることになったのだ。ちなみにこの「虎斑」の駒木地は、思眞が作ったものだ。
以上の経緯からして、この書体はもとより佐藤九段と思眞のものなので、私の作る「天彦書」はこの一作限りとするつもりだ。もしも、「天彦書」がどうしても欲しい方は、盛り上げ駒のみだが須藤思眞にじかに依頼していただきたい。
第76期名人位推戴状。 | 副賞の上記の島黄楊根杢板木地。 | 左・酔棋、右・思眞。 |
天彦書記念対局
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下手(左)松枝初段VS上手( 右)佐藤九段。 |
1.上手が動き出さす。 |
2.下手もかなり危ない。 |
3.上手の中合の銀。 |
1.下手はしっかりと定跡手順で進める。上手は狙いどおりに右金で一歩手にする。その後は下手は銀を犠牲に馬を作り、上手の左陣形を崩したように見えるが、上手は受けに金銀の壁を作り、なかなか踏み込めない。やっとのことで龍も作る。
2.手に入れた桂で上手の右から攻めるも、結局先受けされ、その桂馬を捕獲される。タイミングをややずれていたが、それでも思い切って馬を切り、上手の中段玉に迫っていく。その間に上手は桂、香を巧みに配置し、下手陣を包囲し、いつその攻めが爆発するか、下手にとってはなかなか厳しい状況だ。この局面から、▲5三金▽同玉▲6四歩が好手順。下手は銀を取り、▲6四歩と歩を垂らした手は、佐藤九段にほめられた手だ。その後、上手の▽4七香成▲6三歩成▽4四玉▲2二竜と進む(天彦ポイント・▲6三歩成では▲4五銀のしばりも有力だったが、▽4四玉に▲2二龍が好手で本譜もよい寄せ手順だった)。松枝氏は▲4五銀と指せなかったことを悔いたが、本譜も着実な攻めだったようだ。
3.上手は受けつつも、下手玉の守りを確実にはがして、詰めろで迫る。ここが下手にとって最後のチャンス。この局面は▲4七香の攻めに上手が▽4六銀と中合(天彦ポイント・ここは▽4五角と逆王手もあった。ただ、以下▲5六桂の逆王手で下手が勝つので▽4六銀を選択した)。以下、▲4五歩から王手を続けたが、上手に入玉されてそれまでとなった(天彦ポイント・中合の銀には怖くても▲4六同香として、▽3五玉に▲3四龍と切って玉を上部に逃がさないのが肝要。以下▽同玉▲4五銀▽3五玉▲3六金▽2四玉▲2三金▽1五玉▲1六歩で詰んでいた)。攻めが途切れて、下手は玉を逃げたが詰まされて負けとなった。先の天彦ポイントの詰みは、松枝氏には難しすぎた。せっかく佐藤九段が、下手にいい局面を作ってくれたが、それをものにできなかった松枝氏には、悔いの残る記念対局だったかもしれない。新しい「天彦書」も陰で応援していたのだが……。
どういう局面にするかちょっと悩む佐藤九段。 | いい手はないか腕組みして考えている松枝氏。 |