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淇洲書島黄楊柾目盛り上げ駒・如斎作
(日本将棋連盟所蔵)


「淇洲」の入っていた駒箱の裏には、竹内淇洲の書がしたためられている。 左の駒箱の文字を書き起こした書面。だいたいのことは推測できるが、わからないこともある。

 かなり珍しい駒があると友人の駒収集家から聞いたので、先日、その駒を見に「日本将棋連盟」に行ってきた。
 そのときに拝見したのが、ここで紹介する「淇洲書」である。書体としての「淇洲」そのもののいわれや由来などは、「書体への誘い・淇洲」(▼別項参照)をご覧いただきたい。また、拙著『将棋駒の世界』(▼別項参照)にもそのあたりのことを書いてあるので、ぜひそちらも読んでいただくとして、参考のためにその中にに掲載(P83)した写真を下にも載せておく。
 竹内淇洲(1947年没)自身がしたためたと思われる駒箱の裏に書かれたもの(上写真右)から推測すると、「乙亥(きのとい/昭和10年)に淇洲が棋友の佐藤という方に懇願され、淇洲書を墨書きし(塗鴉)、如斎(斎藤兼吉)に託し駒を二組作らせたうちの一つ。ただし惜しむらくは、鳥海山の黄楊ではないことだ」というようなことだろうか。
 実際にこの駒を作ったと思われる如斎こと斎藤兼吉とは、どのような人物なのか少しネットで調べてみた。斎藤兼吉(1970年没)は、山形県酒田出身の名人指物師であったという。竹内淇洲も同じく酒田だし、時代背景もちょうど重なっている。また、名人指物師といわれるほどの腕前なら、将棋駒を作ったとしても不思議はない。この駒を一応「盛り上げ駒」としたが、もしかすると「書き駒」なのかもしれない。2組あったと書かれているから、このような駒がもう1組どこかに存在すると考えるだけでおもしろい。
 竹内淇洲が実際に作ったとされる下に掲載した駒(下右写真)は、地元の鳥海黄楊といわれているが、今回の「淇洲」を拝見した限りでは、島黄楊柾目に思われた。淇洲自身がしたためた下の駒箱裏と上の駒箱裏は、押された印は少し異なるが、書いた人物は同じに思えるのだがいかがであろうか。
 いずれにしてもこのような駒が出現するとは、駒ジャーナリストの視点も自認する私(酔棋)としても、この上なく喜ばしいことである。

右の「淇洲」が入っていた駒箱(参)と裏書き。 淇洲書鳥海黄楊板目盛り上げ駒・竹内淇洲作。

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駒の詩