この駒の面取りには、通常には見られない特徴がある。上写真の双玉の表面と裏面の駒形の縁を、よくご覧いただきたい。それぞれの縁が段になっているのがわかるだろうか? このような面取りは、駒箱などに施される「ギンナン面」という方法だ。すべての駒に施すわけだから、かなりの手間がかかったにちがいない。 |
とても珍しい逸品の駒だ。長いこと駒作りや取材で駒に携わってきたが、私も「牛谷造」の実物を拝見するのは初めてのことである。
この駒は、別項の「書体への誘い・関根名人書」で紹介している「十三世名人・関根名人記念館」に所収されている。関根が免状を允許した方が持っていたもので、現在は記念館で拝見することができる。
上写真の駒銘を見ればおわかりのように、双玉の駒尻には書体名が書かれてはいない(漆が飛んだようには見えない)ので、作者しかわからない。その作者「牛谷」もあまり資料が残されていない。
明治17年(1884年)の将棋番付の上位に牛谷春甫という人物がいる。牛谷家は、幕末のころからの深川の材木商の大店で、先の牛谷春甫など多くの将棋指しを一族から輩出。牛谷家の当主・牛谷露滴は、八代名人伊藤宗印の十一世名人襲位記念の免状で六段を受けている。その露滴こそが駒の作者だと思われる。
「○○造」というのは、江戸期の「安清造」「金龍造」「真龍造」と共通するところから、どちらにしても江戸末期から明治にかけて作られたものであろう。別項「名工の轍」で取り上げた名工たちより前の時代に、駒作りに携わったとされるのが「牛谷」である。つまり豊島龍山や奥野一香も、その牛谷氏から駒作りを教わったという通説もあるくらいだ。
盛り上げ駒という近代的駒作りの製法が、この駒で確認することができる。名工といわれる龍山以降の橋渡し役が、牛谷氏の駒作りだったのかもしれない。