「錦旗」の素朴な彫り駒。ただし、後述するように古いものだからか、漆は黒というより赤み帯びた焦げ茶に見える(玉将と歩の下写真参照)。 |
駒銘のみの写真がないから、ちょっとわかりにくいと思うが、よくご覧になっていただければ、玉将は「錦旗」、王将は「名誉名人選」と読める。
現在の持ち主が古物商から手に入れたとき、上写真の裏書きをされた駒箱に、この駒は収められていたという。
これも拡大写真でご覧いただければ、「慧剣 昭和三十年六月吉日 名誉名人 土居市太郎(印)」が読み取れる。これは間違いなく、土居名誉名人(昭和29年名誉名人)の書である。というのは、以前私が大内延介九段を取材したときに、師匠の土居名誉名人から伝わる駒にも、同じ印が押された書面が残されているからだ。
そこで、作者不詳のこの駒は、誰が作ったものであろうか? という疑問が当然なことにわき上がってくる。
この駒を拝見した将棋駒研究会会長・北田義之氏は、「この駒は間違いなく影水の作ったものだよ」と明言した。影水作の特徴をよく知っている、北田氏の駒を見る眼力であろう。
別項「名工の轍・宮松影水」で紹介しいる北田氏所蔵の「錦旗」とは、少し書体は異なるが、この駒が影水初期の「錦旗」であることには、私も異論はない。駒の書体というものは、同じ駒師の作でもこのように変遷していくものなのである。
話は戻って、土居名誉名人と影水の父親である宮松関三郎八段は、生前交流があったという。影水が駒を作りはじめたころに、土居のところに駒を持ち込んだという話は巷間伝わっているから、作者名がないこの駒もそのうちのひとつではないかと類推ができる。
初期の影水作の駒を、土居名誉名人があまり認めずに叱咤した話も、周知の事実である。そこで、影水は作者名を入れられずに、「名誉名人選」と入れたのではないかと、私は推測してみたのである。
土居名誉名人の若き駒師に対する厳しくも優しい心遣いや、影水の駒への気概や心意気が、この彫り駒から汲み取れてくると思うのは、私だけではないだろう。
素朴な彫り駒の背景に、秘められたドラマが見えてくる……。